春を生きるもの

 

 どうどうと音を立てながら、春の風が吹いている。

 「春疾風」という言葉もあるけれど、それにしても4月って、こんなに風の強い季節だったかしら。海が近いからだろうか。住み始めてからまだ2ヶ月ほどのこの地域でよくわからないことがあると、「海が近いからだ」と結論づけてしまう癖が私にはある。

 ぬくぬくのこたつに足を突っ込んだまま窓の外に目をやると、洗濯物たちが風の強さを可視化している。干したタオルケットは真横に流され、物干し竿にぐるんぐるんと巻きついている。私はそれを、10分おきに直してやる。いまの私にできることは、洗濯物たちを時々ひっくり返し、均等に陽にあて、効率よく干してやることだけである。

 強風に耐えきれずベランダに落下してしまった洗濯物は、拾い、ぱんぱんとほろってやり、乾いていたらたたんで、しまう。いまの私にできることは、それだけである。

 きょうはよく晴れていたから、午前中に干したものたちは、正午には乾いていて、もうたたんで、しまった。

 2020年4月26日(日)、14時23分。窓の外はがらんとした。

 先日、ベランダから階下を見下ろしてみたら、一階の住人が庭にテントを設置していた。その横の住人の庭にも、レジャーシートとビーチサンダルが置かれていた。

 そんなことを思い出して、これだけ風が強いからレジャー日和ではないだろうけれど、しばらくベランダにいてみることにした。うちには庭がないのが残念だと思ったものの、私にはベランダと、下に敷く新聞紙さえあれば十分なようである。文庫本を一冊持って外に出て、座ってみた。

 ベランダの柵越しには、空と電線しか見えない。こんなにも、無音みたいな雲ひとつない青空なのに、どうどうと風は鳴る。

 風って、物に当たるから音がするんだろうか。風自体に音はあるんだろうか。風って、だれ? そんなことを知らず、私はこの歳まで生きてしまった。

 「絶賛外出自粛期間中」の日曜日の住宅街は静かで、しかし、ご近所のおうちのりっぱな鯉のぼりの、からんからんと回る音、家々のそれぞれの洗濯物が物干し竿にかんかんと当たる金属音、洗濯バサミのからからとした音が、いそがしく聞こえてくる。生活の音である。

 いま、世界規模で起こっているこの状況下において、私にできることは、なにもない。

 できることは「なにもしないこと」しかないのに、その逆をしているのだから、私の存在はマイナスなのではないかとも思う。

 私はいま、大型書店ではたらいている。不特定多数の人と接する不安と、感染拡大防止やその対応のために尽力してくれている人たちへの後ろめたさを抱きつつ、ほしい人のもとに本を届けるという業務を継続している。

 私はたしかに、「外出できないのなら家で本を読もう」とかんがえている人の役には立てているのかもしれない。しかし、これでいいのかな、と思う。こんなにも人を集めてしまって、いいのかな。いや、よくないよな。

 本がなければ生きてこられなかった私があえて言うと、本は「生活必需品」ではない。より正確な言葉に換えるならば、「数ヶ月間生き抜く」ための「生存必須品」ではない。いまは、広義の犠牲者を最小限に抑えることが最優先されるべきである。そのために本は、数ヶ月間新たに手にしなくても生存していられるものとして、「生活必需品」すなわち「生存必須品」のカテゴリには入れないべきではないか。

 本は、平時から読み、緊急事態に備えておくものであると私は思っているのだけど、なぜいまになってこんなに売上が伸びているのか、私にはよくわからない(休校を理由に学習参考書が売れるのは理解できる)。なんて、性格の悪いことを言ってはいけない

 今回を機に本を読み始めた人たちがこれからもずっと読み続けてくれることを、いまは願っている。本との向き合い方は人それぞれだから、消費する読み方だってそれもひとつなのだけど、どうか本を読むことを、未来をつくる糧としてほしいと思う。

 現在、仕事がなくなって大変な思いをしている人や、仕事をしてはいけないと言われ困惑している人がいる一方で、インフラではないのに休業要請がないために本来の繁忙期よりもなぜか忙しくなって疲弊している人もいる。私は後者である。

 くる日もくる日も、レジ列が絶えない。

 スーパーやドラッグストアなどのように生活必需品を扱っているわけではないのだし、大型店であるゆえに人を集めてしまう私の店舗は、入場制限を設けるなどの最低限の対策を取れないならば休業すべきだと思うのだけど(できない理由を挙げる人にはなりたくないが、おそらくそれはある。四捨五入すると10階にある私の店舗で入場制限をするならば、下の階は他の会社のフロアであるため、屋外に並ぶしかない。それは現実的ではない)、なかなかそうはいかないらしい。そしてそれを放置している私も共犯なのだと思うと、暗澹たる気持ちになる。

 ただ、休業したとしても毎日本は届くらしく、「ひたすらに入荷作業をしてひたすらに返品作業をする」という苦行を強いられることになるそうである。

 誰かに読まれたくて誰かに伝えたくて、せっかくつくられたのに、店頭に並ぶことすらできない本がかわいそうで、並べてあげたい気持ちはもちろんある。あるのだけど。どうするべきなのか、よくわからない。

 陽がかげり、寒くなってきたので、家の中に戻った。

 私が着ているもこもこの部屋着からは、おひさまにあてられた洗濯物のような、外の生きものの匂いがした。

 人間社会が一変しても、季節や自然は循環を止めることなく動き、生きている。桜が終わり、つつじが咲く。もうすぐ、緑の眩しい5月がくる。

 自分の理解を超えた判断や人格に対しても、想像を及ばせて、かんがえることのできる強さがほしい。倒れない強さがほしい。それも知性と理性の範囲だろう。

 私は、「ただしい」「生きもの」でありたい。