未来である

 

2020年4月7日(火)

 大学時代、恩師という言葉でも足りないくらいお世話になった先生がいた。

 あるとき、その先生から、「あなたは理性と知性の人であってください」と言われた気がした。

 実際に言われたわけではないことはしっかりとわかっているのに、それでもどうしても、「言われた」気がしてならなかった。先生ならきっとそう言うだろうと、そのとき思ったのだった。だから、「言われた」ことにしている。ちょっと気持ちわるい話でたいへん恐縮ではあるけれど、そのおかげで、「そのようでありたい」という気持ちではいられている。

 理性的であるとはどういうことか。知性的であるとはどういうことか。

 自分の判断は間違うことがあるということ。同様に、周囲の判断も間違うことがあるということ。そのことを忘れずにいること。

 「これはあるべきすがたなのか?」「これはめざされるべき未来なのか?」「これはただしいことなのか?」と、つねに疑うこと。考え続けること。勉強しつづけること。「感想」によらない「論」を立てること。その繰り返しを止めないこと。

 自分が理性的で知性的であったことなどないように思えてならないなりに、そのような姿勢であるよう努力をしているところではある。

 けれど。

 なんだかしんどくなってきてしまった。

 わからないなあ。

 経済の観点、感染拡大を防ぐ観点、などがあり、それぞれの最適解がある。

 唯一の正解はないのかもしれない。

 唯一の「ただしい」はあるのだろうか。

 安易な相対主義にはなりたくない。

 でも、「死なない」「死なせない」以上に優先すべきことってあるのだろうか。

 私はなんで泣いちゃうのか。原因と解決策はなにか。

 自分の感情の分析すら追いつかない。

 

 きょう、緊急事態宣言が出された。

 私の勤務先(7都府県内の全国チェーン書店)は当然臨時休業になるだろうと思っていた。

 しかし、ならないらしい。系列の他店舗は、すでに5月6日までの臨時休業を決めているところもある。

 なぜ、私の勤務先は営業を続けるのだろうか。

 営業するならするで私は従うしかないので(本当に、「しかない」のか?)、「ほしい人のもとに本を届ける」という職務は全うするしかない。その代わり、「感染拡大防止を図る」ことはできない。仕事を止めるわけにいかない人たちはほかにたくさんいらっしゃって、その人たちの「人との接触」を減らせない分をすこしでも私が減らしたいと思っても、それはできない。

 こんなにも、専門家や医療の方々が力を尽くしてくれているというのに、営業を継続して人を集めてしまうことは、それを妨げることになるのではないか。そして、そうであることは否定しがたいと思う。

 はずかしながら、私は生まれてこのかた知性が不調だから、その続きを考える能力がいまのところない。ごめんなさい。

 そのことと、どうしても「納得」できないことが別にひとつあって、しんどくてたまらない。

 たとえば感染者が店舗で出たなら、臨時休業せざるを得ないでしょう。

 「誰が感染していてもおかしくはなく、感染したとしても本人でさえ気がつかないことがある」ような現在の状況下において営業ができているのは、ただ運が良いだけではないか。

 この状況下における「(時短だけど)通常通り営業します」を、私は、「店舗で従業員の感染者が出るまでは営業します」と同義と解釈している。

 そんな賭けをしないでほしい。「死ぬまでたたかう」みたいな、先の大戦マインドでやっていこうとしないでほしい。しかも今回の場合、「死ぬ」のは自分だけではないかもしれない。誰かを死なせているかもしれない。それに気がつくことさえできない。健康と生命を賭けないでほしい。

 私は本来、本を購入することが不要だとも不急だとも、すこしも思っていない。

 私自身が文章と思想に助けられてきたし、助けられている。文章や思想を伝える媒体は本であることが多いので、私は本を愛している。その本との出会いの場としての本屋を愛している。

 本は、そこから学んだことによって未来をつくってゆけるのだから、「必要なもの」である。特に現在のような緊急事態には。

 そして本は、「これを読みたい」と思ったならそのときが読むときなのだから、できれば急いだほうがいい。

 だけど。

 だけど?

 やっぱりこの続きをうまく考えることはできない。

 私の店舗が営業する理由は何だろうか。

 

 

2020年4月13日(月)

 いよいよ休業しない弊店。平日も土日もたくさんのお客さんがやってくる。息つく暇もないとはこのことである。

 緊急事態宣言が出された翌日に、代表取締役からの「おことば」が届いた。それに対して言いたいことがいろいろあるのだけど、これは私が間違えているんだろうか。

 「おことば」によると、7都府県の一部店舗において「私たちは知のインフラを支える、というミッションを果たす」として営業継続を判断した根拠には、「二度の震災の時の経験」と「書籍を通じてしか得られない知を求めて来店されるお客様」や「授業が受けられない学生や子どもたちのこと」があるという。

 まず、いままでに起こった緊急事態の先例として、「二度の震災の時の経験」を今回の緊急事態にも適用したとのことだろうが、自然災害と感染症は別ものではないだろうか。

 たとえば、自然災害によってお客さんや従業員の家が、残念ながら全壊してしまっていたからといって、その人と接した周りのお客さんや従業員の家も全壊するわけではない。しかし、もしもお客さんや従業員が今回のウイルスに感染してしまっていたとしたら、その人と接した周りのお客さんや従業員にも伝染することもある。自然災害と感染症には、「被害」が周囲にも伝染するかしないかの明確な違いがある。

 それをふまえて、「書籍を通じてしか得られない知を求めて来店されるお客様」がいらっしゃるという根拠についてもかんがえてみる。

 これはおそらく書店員として言っちゃいけないことだけど、「本屋でしか本を買えないわけではない」。

 もちろん、内容を確認したうえで購入できるのは「リアル書店」の強みである。はじめて見かけた本になんとなく惹かれて買ってしまう、という「出会い」があるのも、強みである。私自身、何度それに救われてきたことかわからない。しかし、それを感染症流行下においても求めるべきではない。いまだけは待っていてほしい。健康と生命には代えられない。

 本屋の休業は、本を入手する手段が完全に断たれるということをかならずしも意味しない。代替手段として、インターネットがある。

 しかし、書店ではなくネット通販で本を購入する人が増えれば、現状でさえネット通販が増えていて、かつ緊急事態においても休むことができない運送業者さんの、さらなる負担増となる。それは、たいへんに心が痛む。じっさい、私の父がその業界にいるから、嘆きはよく聞いている。

 負担増についての解決策を私は持ち合わせておらず、「本屋がないならネットで買えばいいじゃない」という案が無責任であることは自覚している。申し訳ございません。それでも、「絶対に休むことができない仕事」ではなくてかつ「クラスター発生源となりうる」書店は休業すべきなのではないか。「絶対に休むことができない仕事」の人たちのぶんを私たちが休んで、人との接触を減らすことと、「人を集めない」ことが、いま書店にできることであると思う。

 最後に、「授業が受けられない学生や子どもたちのこと」という根拠についてもかんがえてみたい。

 たしかに、休校の決定や延長により学校で勉強ができないことを受けてか、学習参考書は現在、飛ぶように売れている。平年の売上と比較してのデータを私は持っていないので、これはただの私の体感であるけれど、学習参考書がよく売れる。こういう光景を目の当たりにしていると、学参を売る場を確保したいと思ってしまう。とはいえやはり、健康と生命には代えられないのではないだろうか。「本屋で参考書を購入する」の代替手段は、前述した通りである。

 現在の本屋は、売り場もレジ前も混雑している。もう、「わからないな」と思う。「わからない」。もしかすると、この店舗で感染した・感染させた人がいるかもしれない。でも、それは「わからない」。

 「知のインフラを支える」という矜持は、平時においては私もささやかながら持っている。もしも自然災害時にその言葉を受けたなら、私もできるかぎりがんばりたいと思うと思う。しかしやはり、感染症流行時にも有効な誇りであるとも、課していいミッションだとも思わない。

 専門家が「平均して8割、人との接触減らすべき」と提言していて、それが感染拡大を抑制するならば、それがかなうような行動をとることが私たちの現在すべきことではないか。

 私にとっての「知」の定義である「未来をつくるもの」をここでも採用させてもらうなら、いまとるべき本屋の「知性的」な行動とは、「当面の休業」であると思う。「未来」である「健康と生命」を守るためには、その選択をすべきではないか。確実に感染しない・させない手段をかんがえ、それが取れるというなら、話はまた別かもしれないが。

 ちなみに、「おことば」では、「同業他社が休業しているあいだに私たちは営業を継続して稼ごう」とも「経営が大変だからやらざるをえない」とも言われていないので、そのようなことは私も一切考慮していない。

 今回の件を受けて、どれくらいの本屋や出版社や関係業者が消えてしまうかわからない。その損失の大きさを私は計ることも知ることもできないから、「本屋は当面休業すべき」と言えてしまうのかもしれない。じっさい、そうなのだろう。

 けれど、まだ本は消えない。

 そんな単純ではないと怒られるかもしれないが、データや文などが残っているなら、本は再生可能ではないか。それとくらべて、個々の人間の生命は再生不可能である。

 私は、誰かの健康や生命を奪うことに加担したくない。

 「いま最優先して守るべきものは何か?」を問えば、いますべきことがみえてくる。

 最後に、私には対応策がまったくわからないからふれなかったことについてふれておくと、「本屋や出版社や関係業者」が消えないためには、未来である健康や生命を守るためには、政府がなんらかの手段をとるべきだと思う。

 

 

 以下、主語が大きいし、大げさな気がするのだけど、引用します。私が手書きでノートに書きなぐっていただけのガチ日記(原文ママ)です。

 

 私は研究者になるわけでも教職に就くわけでもないから、私が文学や哲学を勉強して、私のため以外の何のためになるのかわかりません。でも、文学部で私が今までのところ学べたのは、人によって異なる感想や、「よい」や考え方から、「人によらない」ものを導きだすこと、歴史(何千年昔の外国のどこかの人)から学び、予想できるいちばんよい策や未来を描くことです。

 文学は未来をつくりえるし、国を守ることができると信じています。

2016年1月23日(土)の、私の自分用日記

 

 4年前の私や、私が愛している文章を書く人・思想家に土下座して謝りたいくらい、いまの私はなにもできない。

 なにもできないけれど、未来である健康や生命を失わない手段、本を失わない手段をかんがえることはやめないでいようと思う。

 私が現在かんがえられること、できることはここまでです。

 これでいいと思っちゃいけない。止めちゃいけない。

 

 

 おわりに。

 下記のような、書店のネット通販もご活用くださいませ。

 

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