「24さいでこんなことになってるなんて予想外だったよね、恋にあたふたして友情に毎日感謝してる大人になる予定じゃなかった、でも毎日最高」
私の流星の友人のことばである。ほんとうに最高な女の子だ。
先週彼女と電話をした。近況報告などをしつつ、この年齢ってもっと大人だとおもってたよね、高いヒール履いてたり、ばらの花束とかもらってる予定だった、だとか、笑って話した。現実ではスニーカーで走り続けていたり、終電を乗り過ごして歩いて帰ったり、あたふたと、そんな感じ。でもね、それもさいこーだよね。
いつから私たちこんなに仲良くなったっけ、という話にもなった。ふたりともはっきりと思い出せなかった。なにか出来事を思い出しても、でもあの前から仲よかったよね、となる。きっと、ひととひととの関係というのは名前や時間で区切れるものではなくて、グラデーションでしかないのだろう。
キャッチボールはひとりではできない。私が投げる球を受け取った相手のグローブの発する「ぱしっ」という小気味良い音と、相手が投げる球を捕球したときの手のひらの満足げな痺れのうちに、私たちは自分がそのつど相手の存在を要請し、同時に相手によって存在することを知る。あなたなしでは私はこのゲームを続けることができない。キャッチボールをしている二人は際限なくそのようなメッセージをやりとりしているのである。このとき、ボールとともに行き来しているのは、「I cannot live without you」という言葉なのである。これが根源的な意味での「贈与」である。私たちはこのようにして他者の存在を祝福し、同時に自分の存在の保証者に出会う。「私はここにいてもよいのだ。なぜなら、私の存在を必要としている人が現に目の前にいるからである」という論理形式で交換は人間の人間的尊厳を基礎づける。(中略)たぶん、ほとんどの人は逆に考えていると思うけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。どうして「その人なしでは生きてゆけない人」が増えることが生存確率を向上させるのか、むしろ話は逆ではないのかと疑問に思われる向きもおられるであろう。「誰にも頼らなくても、ひとりで生きてゆける」能力の開発のほうが生き延びる確率を高めるのではないか。経済合理性を信じる人ならそのように考えるだろう。だが、それは短見である。「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実認知的言明ではない。そうではなくて、「だからこそ、あなたにはこれからもずっと元気で生きていて欲しい」という、「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。自分のまわりにその健康と幸福を願わずにはいられない多くの人々を有している人は、そうでない人よりも健康と幸福に恵まれる可能性が高い。それは、(キャッチボールの例から知れるように)祝福とは本質的に相互的なものだからである。内田樹「あなたなしでは生きてゆけない」(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文春文庫 p-272)