少女時代のこと

 
    先日私は、毎日電子文通をしている七年来の友人から「永遠の少女マニア」との称号を与えられた。
    その永遠の少女マニアは先週、はじめて行った古書店で、宮迫千鶴さんの『超少女へ』という本をたまたまみつけて、げっとしてきた。これが素晴らしい出会いであった。本には呼ばれるものである、と誰かが言っていたがまさにこのこと、と、久しぶりに思った。
    少女に憧れる身としてはやはり単純に、この『超少女へ』という題に惹かれたのだった。とりあえずページをぱらぱらめくって内容をみてみる、くらいのつもりであったはずのこの手はもう、その本を離さなかった。
    帰宅して、読んでいたら、涙が出た。想像していた内容とはやや違っていて、けれど、やや違っていたその内容がとてもよかった。
    「1. 少女へのタイムトラベル」の章には、「あ、あ、あ、」と、自分のむかしのことを思い出さされたり、そっかみんなそうなんだな、と心強く思わされたりした。なかまができた気がした。また、私は「少年的少女」ではなかったし「少女的少女」でもなかった気がするな、それならなんなのかな、とかんがえたりもした(まだよくわからない)。
    2. 3.以降の作品解釈は「男性原理」「女性原理」を軸として書かれていた。世の中って人間って、そうだったのか、と思った。
    フェミニズムについて書いているわけではないし、男性原理と女性原理から作品を読み解くことが、この本の目的なのではない。その軸は、作者自身のこれまでの人生や自分自身の謎について解き明かすための、ひとつの手段に過ぎない。
    「どんなできごと」から出発してこれらが書かれているかは、読んでみてください。その核心については、ここには書かない。
 
    今年度の私の目標は「人生総決算」であった。これから生きていくにあたり、私は自分の少女時代について思い出さなければならない。当時の自分の感情を辿り直してみなければならないし、考えてみなければならない、分析してみなければならない。それはあまりしたくないことだ。おそらくみんなそれぞれに、そういうものはあると思う。私はまあ別に大したことじゃないんだけど、って、そう思うその理由を考えたいし分析したいのだ。
    この本の著者の宮迫千鶴さんは、どれほどの感情や葛藤を乗り越えて、『超少女へ』を書かれたのであろうか。想像すると胸が痛む。
    私が「じぶん」を辿り直すことで、また、なぜじぶんはここに至ったのかを考えることで、傷つくひとはいるだろうか。いるだろうな。ある出来事や原因をみつけたなら(といっても、人間はそんなに単純ではない。ひとりの人間という布を織ったその糸同士は複雑に絡み合い、毛糸の塊のようになっている。「ひとつの出来事」だけを取り上げてそれを「原因」と定めるのは、その毛糸玉の糸を一本一本ていねいにほどいていくという本来なされるべき過程や工程をすっ飛ばしてえいやと鋏で切断して糸をばらけさせ、無理やり解決したことにするような、そんなふうに乱雑なことだと思う)、その出来事や原因にはそれを「起こしたひと」があるのであるから、そこに責任を置くことになってしまうのではないか。私はそのひとのせいにしたいわけではないし、きっとそのひとのせいでもないのだ。でもそれをしないと私は、生きてゆけない気がする。
    しかしながら、そのような葛藤をどうにか乗り越え自分なりに考えたり分析して出した答えも、それをどこにも書かずじぶんの中に留めておいたならば、だれも傷つかずに済むはずなのだ。だれの目にも本人の目にもとまらないのなら、知ることがないのだから。ならばなぜ書きたいのか。
    「書くこと」のむずかしさに、今さらながら直面している。ひとに読まれる前提で文を書くようになったのはここ2,3ヶ月のことなので許してほしいと甘えたい。どこまで書いてよくて。どこまで書けて。それは自分の技量だとかの問題だけではない(もちろんあるけど)。最大多数の最大幸福、というやつだろうか。それで許してよいのだろうか。
    宮迫千鶴さんもあとがきで、「解釈する者は、解釈されるべきである。それが私たち人間の文化における自由ではないか。だが、私は私自身の過去を、言葉によってテキスト化したことに、ある種のためらいをおぼえている。というのはこれこそ私小説的理由なのだが、私は、私の生母、義母、祖母といった言葉を持たぬ人々に、言葉の暴力をふるっている。むろん私は私の力のおよぶかぎり、言葉の暴力的側面を骨抜きにしたつもりであるが、言葉はつねに何かを限定する以上、暴力的であることは避けられない(私はだから絵が好きだ。絵は世界を分割しない。曖昧で、矛盾だらけの怒りと悲しみを、そのまま視覚化する)。」と書かれている。
    うーん。よくわからなくなってきた。
    私はまずかんがえて分析するところからはじめて、その後のことはそのとき考えよう。
 
    先ほど、同じく「永遠の少女マニア」の同志である友人に「いい本げっとした」とじまんしたら、「かつて君も少女だった」と感慨深げに言われた。しかし私はまだ少女のつもりであるよ。えっむりですか?
    こころはいつまでも少女でありたい。
    私はまだ真珠の涙を流せるか。
    風になびく髪から星くずはこぼれるのか。
    私にとっての少女の定義のひとつはそこにある。
 
    いつか「あなた」に伝わるかもしれない、と思うと、やはり書きたくなってしまう。