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恋のまたの名は

 

 いつも花にばかり目が行ってしまうから、外を出歩くたび危機一髪が起こる。と、「花ある君」に先日書いた。私が見てしまうのは、花ばかりではなくて、空もだった。

 家の玄関を出たら、まず空を見上げる癖が私にはある。

 自転車をこいでいても見上げながら、飛行機の数をかぞえる。ひとつ、むこうにふたつ、みっつ、と。そのせいで電柱にぶつかりそうになったり、ぐらりと車体が傾いたりする。それでもなかなかやめられない。伊丹空港関西空港が近くにあるせいか、飛行場のないはずの京都の上空にも、頻繁に飛行機が飛んでいる。私の通う大学のキャンパスの広場を歩いていても、空がとても広いから、それらをみつけることは容易である。探せない日は、なんだか物足りない。もちろん空は、大体の人がそうであるように私も小さなころから好きだったけれども、こんなにも飛行機を数えたりするようになったのはずいぶん大きくなってからのことだ。

 なぜこうなったのかな、とかんがえたら、思い当たることがあった。

 むかし好きだったひとが空の仕事をしていたのだった。それで、つい私も見上げる癖がついてしまった。すーっと飛んでゆく、青によく映えた真っ白で鮮やかな飛行機を見るとうれしくなる。背すじの伸びる思いがする。

 意識に上がらないほどのところで、そういうできごとは私の中に生きている。 

 そのひとが遠くへ転勤していくとき、私は、その行き先の出身であってそこに記念館も建っている文豪の話を、何度かした。むこうとしてはあまり興味がなかっただろうけれども、この詩とこの詩が好きで、などと話した。その文豪の名前を聞くたびに胸をかすめる何かが、そのひとがそこへ行ったあとにも残るように。私のことを少しでも思い出してもらえるように。内気で何も言えない私にも、そういう狡猾さだけはあった。自分が好きなものの話はたくさんしよう、と、そのときから意識している。

 思い出してもらえているかどうかはわからない。あの話はもう忘れられてしまっているかもしれない。またどこかへ転勤していっているような気もする。それでもすこしでも、私が無意識に空を見上げるのと同じような感覚で、そのひとのなかに私が残っていたらいいな、とは今でも思う。

 見たことがなくて、形なんかなくて、色もなくて、匂いもなくて、そんな恋のまたの名はやはりおばけなのかもしれない。私の中にしのびこんで、ひっそりと、時々、おどろかせるように現れたり、空を見上げさせたりする。あれはおばけのしわざだったのだ。形でもなく色でもなく匂いでもなく、あの「恋」だけが私の中に残っている。

 だれかのおばけがしのびこんだことで、知らないうちに、癖や、話し方などがつくられることは時々ある。そんな風にひとはだれかの中に生きている。私の中にもだれかが生きていて、それに気がつくことはなんだかむずかゆくて、嬉しい。

 

 

 恋を見たことある?

 ない 恋人ならあるけど

 恋はどんな形をしていると思う?

 形なんかないよ

 じゃあ 色は?

 色もない

 匂いは?

 匂いもない

 じゃ おばけだね

 そう 恋のまたの名はおばけだよ

 ドアをあけて眠りましょう

 あなたのおばけ

 恋がそっと入ってきてくれますように

  寺山修司「小さな恋の物語」