降りみ降らずみ

 

 大雨が降って、金木犀の匂いを遠くさせて、私は27歳になった。

 毎年書いているような気がするけれど、私がはじめて金木犀の匂いを知ったのは、修学旅行でやってきた京都においてである。その修学旅行中に私は誕生日を迎え、17歳になった。

 はじめてかいだ金木犀の匂いは鮮烈だったらしく、今でも私は金木犀の匂いを感知すると、17歳の10月に引き戻されてしまう。あの子たちがいて、とっても楽しくて。古都の街並みを、その路地を、覗き込んでは見惚れていた私に、戻されてしまう。

 当時の私は、運命論者だった。

 これから先の大学受験の結果やそれ以降の人生の行程は、きっともう決まっているのだと思い込んでいた。もう決まっていて、それが最善の結果であるのだろうと思っていた。きっとこの先には最善が待ってくれているのだと、なんの疑いもなく信じていたのだった。

 それから10年が経って、「運命」などという便利なものはないと気がついた。

 運命なんて便利なものはなくて、未来なんて予定帳があるのでもなくて、生きる毎日がその結果となるだけなのだった。私が選んだようにしか、人生は進んでいかないらしかった。すべては私の選択の結果らしかった。「選ぶ」も「選ばない」も、私の選択によるものだった。そして振り返れば私の道は、「選ばないを選ぶ」ことによって舗装された箇所ばかりが目に付くのだった。

 27年間を振り返って、「これは私の人生なのだ」という思いを抱く。凡庸なりにいろいろな出来事があり、小学校時代、中学高校大学、社会人、などを経てきて、その時々を生きているだけなのだと思っていたけれど、そのひとつひとつの時間の流れや経験が「人生」というものだったのだと、ようやくわかるようになった。私は「私の人生」を生きているのだった。

 そうして、これは私の人生であると同時にあなたの人生の一部でもあるのだ、ということにも気がつく。私は私の人生を生きていると思い込んでいたけれど、私の人生は、あなたの「子育て」でもあったのだ。

 子ども時代において、私は「選択」をすることができなかった。私はただそこを歩くしかなかった。理由もわからずに。泣くこともできずに。

 今でも20年前のことに縛られて、時々動けなくなる。

 今でも17年前のことに躓いて、時々立ち上がれなくなる。

 そのことをあなたはきっと知らない。

 くだらないと一蹴されても、いつまでも泣いてるんじゃないと言われても、私は、いま、傷つきたい。ひとつひとつ丁寧に思い出して、ひとつひとつ丁寧に傷つきたい。あのとき傷つけなくて、泣けなかったことを、いまになってようやくわかるようになって、傷ついて、泣けるようになったのだ。単純なことではなかったとわかっているからこそ、傷つくことができるんじゃないか。

 「時間が経った<いま>傷つくことに何の意味があるのか」と問われれば、それに根拠をもって答えることはできないが、当時持てなかった感情をいまになって起こしてみることには、「わたしをゆるす」という作用があるんじゃないか。

 わたしは、泣くことを、なにか思うことを、できなかった。私のなかでいまでも動けずにいるわたしに、泣くということを、なにか思うということを、私は渡してあげたい。いいことなんだよとゆるしてあげたい。それは、いまの私にしかできないことだと思う。そんなようなことは3年前にも書いているのに、それができていないのは、ただ勇気がないだけだ。

 誰にも言えないことがある。「言えなかった」という、「言えない」ことがある。

 それはきっとあなたも同じでしょう。「言えなかった」、「言われなかった」、「言えない」ことは、あいだに横たわったままでそこにある。横たえたまま続けていくしかないこともある。

 いつになったら泣きやめるだろうか?

 いつか友人からもらった「強くなるしかないんだよ」という言葉は常に胸に刻んでいるけれど、「泣くこと」、「思うこと」も、「強くなること」への遠回りな近道となりえるのだと、私はかんがえる。

 大丈夫です。これだけ「感情」が苦手な私はかならず、また「理屈」で起き上がります。

 私はもう大きくなったから、私にもあなたの選択がわかるようになってしまった。私はもう、子供のころの私によりも、当時のあなたのほうにずっと年が近いから、きっとあなたの迷いやためらいもわかってしまう。そうなるとよけいに傷つくことができなくなるのだけど、私が傷つくことは、私を主体と置いた場合のあなたとの関係において重要なことだと思う。

 しかし、あなたの選択を理解しても、あなたの人生をわかることはできない。あなたのかなしみを、私はわかることができない。わたしを抱きしめたくて広げた同じこの腕にあなたを抱こうとしても、風をかすめてゆくばかりで、そこには誰もいないのだ。

 言葉がいつも遅れてくる。

 どんなに抱えようとしても、私には抱えきることのできない「人生」たちに、「かなしみ」と、ちいさくルビを振ってみた。

 かなしみを、かなしみとしてゆるすとき、胸の凍土は海へとけだすのか。

 生命は海から始まったというのなら、かなしみは何を生み出せるのか。

  私は、「あなた」に会いたい、と思う。

 この文章の向こう側に、「あなた」がいてほしい。

 それはここまで記述してきた特定のあなたではなく、不定の「あなた」であり、特定の「わたし」でもある「あなた」である。私はあなたに会いたい。伝えてはいけないと思っても、それでも書きたいと思うのは、あなたに会いたいからだ。わたしもまた、「あなた」である「私」に会いたかった。

 私は書くことを選びたい。

 あなたに会えるかもしれないこれからを選びたい。

 

 

 

 2019年10月、2020年3月