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花ある君


     梔子の花びらって、どんなかしら、と思っていた。
     梔子って、意志がある。あの造形。ほかの花より立体的に感じるのは、そのなにか意志のせいか。「わたしはこういうものとして生きています」という主張、意志。それゆえか、あの花びらは澄んだような白ではない。濃い白。ほかの何いろにも染まらない白。みずからにしか染まらない白。天使のような純白ではなくて。このほかの彩りを知らないのではなくて。ほかのなににも揺らされない。あらゆる彩りを取り入れたうえでの白。たとえば川端康成ノーベル文学賞受賞記念講演で「美しい日本の私」と題してかたったなかに、「色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています」という一文がある。白にはやはり、あらゆる色が内包されているのだ。梔子のそれには、特にそう思わされる。
     であるなら、6月に道を歩いているとある日からかすめはじめる梔子のあの香りも、彼女たちからの、なにか主張のように思えてくる。
     きっとすこしかたい、との予想をもって、破らないように、こわさないように、よごさないように、そうっと、その花びらをつまんでみた。

     柔らかい。
     強さであるような、柔らかさ。

     ひらがなで「やわらかい」のではない。確固とした意志を持った、強度のある「柔らかい」。
     花びらは、しと、と、指先になじんだ。生気。その外見の潔癖さ・高潔さから、てっきり拒絶されるかと思っていたのに、また、私がふれたはずだったのに、彼女からしたわしげにふれられた気がした。「離さないで」「わたしを見ていて」と、語りかけられた気がした。どきっとした。あのはかなさと眼差しの強さ。梔子の時季ももうすぐ終わるのだ。
     花のようなひとになりたいといつも思う。花の似あうひとだとか。
     たとえば川端康成が『伊豆の踊子』(また川端さんを引用してしまった。わたしが川端作品が好きな理由がなんとなくわかってきた気もする)で、「それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うと言う言葉が彼女にはほんとうだった。」と書いた、その彼女のような。あるいは島崎藤村の「初恋」の、

      まだあげ初めし前髪の
      林檎のもとに見えしとき
      前にさしたる花櫛の
      花ある君と思ひけり

     その「花ある君」のような。
     精神性が外見に現れることで、そう見えるような。
     そのひとの美意識や人間像は、どんな花を好きなのかを知れば、みえてくるような気がする。どうだろうか。わたしなら何になりたいだろう。
     気がつけばここにはいつも花のことばかり書いてしまう。だってわたし、外に出れば花のことしか見ていないんだもの。植え込みに咲くそれらに見惚れて自転車を漕ぐものだから、毎日が危機一髪。でもそのかわりに、時の流れを感じることができる。きのうよりも花をつけたな、だとか、色が濃くなったな、だとか。ここのところのわたしの日課は、先日夏の花 - 一草一花で書いた、通学路の凌霄花百日紅と芙蓉と、あと名の知らない背の高い青い花と、民家の前に突然置かれている百合の花に毎日あいさつをすることである。
     花は、ただそこにあるだけで「美しい」と、「わたしもああなりたい」と、思わせてくれるからよい。あ。ちがうなあ。花はただそこにあるだけではないのだ。花は生きている。生きて自ら花を咲かせている。それぞれの色と、形と、匂いとを纏わせて。「これがじぶん」として生きている。梔子からは特に感じさせられる。その生がわたしたちに訴えかけてくるのだろう。
     わたしが花になるとしたら。
     ナンバーワンとかオンリーワンとか、そのどちらがいいだとか、どうでもいい。「じぶんの美しさ」をもって、凛と生きたいな。
     ああ、「耳につけたるイヤリングの花ある君と思ひけり」とか言われてみたい。


↓近所の大通沿いの梔子さんです。
   なんで花ってこんな美しい色とかたちに生まれるの。

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