駆け出そうか

    

赤い唇が色あせる前に

その熱い血潮の枯れぬ間に

きみは駆け出すんだね

今日は春の中へ

瞳の中に花が咲いて

サニーデイ・サービス「東京」

 
     サニーデイ・サービスの「東京再訪」をみてきました。「絶対いいよね〜」という想像の一億倍上回って、よかった。100年分の恋をした。人生で一番拍手した。人生ではじめてスタンディングオベーションしそうになった(すればよかった)。
 
     曲とは、CDで聞いて、ライブで聞いて、そこではじめて完結するものなんだな、ということを以前から思っていました。「東京」をライブで、通しで聞いてみて、そのことを改めて痛感しました。「東京」ってやっぱりこういうアルバムなんだな、と感じるなど。それはまた書くことにします。
 
     いまわたしは帰りの電車の中です。「東京」を聞いています。一年前の渋谷公会堂ワンマンのときも、帰りに「東京」を聞いていたなあ。
     
ぼくも駆け出そうか
きょうは街の中へ
瞳の中に風が吹いて
 
     街の中へ、東京のなかへと駆け出したわたしはまた、京都へと駆け出さなきゃなんない。ちいさな短編集をひとつひとつと読むような生活がそこにはある。
     「東京」で描かれた「東京」とは、実はどこの街でもありうるのだと思う。京都の街にも、「東京」のような季節や思いや若者たちの光景はある。わたしも、「東京」のなかの「ぼく」や「きみ」なのかもしれない。わたしは「ぼく」や「きみ」を眺める存在であると同時に、眺められる「ぼく」や「きみ」なのでしょう。客体でありながらも主体として、どこかの街の主人公として、私にとってはそれは京都で、また生活をしてゆこう。同時多発的に日々はある。
 
 
     瞳の中に風が吹いたならいつかきっとたどり着く場所へ。この熱い血潮の枯れぬまに。
 
 
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なにを聞いてもしっくりこない夜というものがあってね

 
     生きていたいなあ。
     私には好きなひとしかいないから生きていたい。私は、愛する人間です。みんな愛しているんです。ひとも季節も時間も。だから私を殺すとしたら私なのでしょう。みんな私を生きさせてくれているのだから、私を殺すとしたら私しかいない。と言っても自分のことを嫌いではない(クズだなあとかほんと何もできないなあとかは考える)。愛しているからこわくてたまらないよ。
 
     なにをするにしても、私はこれからも生きるのかなあみたいなところで立ち止まってしまう。贅沢なやつだな。しぬならしぬのだし、それまでは生きるんだよ。生きるなら、手段を考えなければならない。
 
     なにを聴いてもしっくりこない夜というのがあってね。そんな夜のやり過ごし方を知ることが生きていくということなのかもしれないよね。
 

ゆくひとたち


ゆくひとたち

夏の風が君をさらって
オリオン座がわたしを手招きました

駆けるように晴れたあの日

ふたりでまいたあおい絵の具が
空からことぱをなくさせました

だから夜は星をならべて
物語をはじめたのです

星の瞬きが語りかける夜
恋とは、愛とは、美しさとは

隣のまばたきが語りかける夜
あなたが、ここに、いてほしい

そして明くる朝 告げること

喉元ながれる八月の熱
キスして君が天の川

花の名 ひとつ その手にあげよう




とりあえずで生きる

 

  この1ヶ月くらい鬱々としていたのに急に生き返った。ここのところばいとと大学しか行かない日々(ゼミも怖くてさぼってた)、ばいとでしか人と会話しない日々、だった。でも出かけるようになったら世界が広がった。生きていこうと思った。

 

     “Le vent se lève, il faut tenter de vivre”

 

   ポール・ヴァレリー「海邊の墓地」の一節です。

   岩波文庫の『ヴァレリー詩集(鈴木信太郎訳)』で「風 吹き起こる…… 生きねばならぬ」と訳されています。

   堀辰雄はこの一節を「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳しました。このことについてもいろいろここに書いていたのですが、「めやも」の誤訳説を知り、それについてかんがえることは「風立ちぬ」の作品を読み込むことであり、考えるうちに作品内における意味と現実における問題とが交錯してきてよくわからなくなった(作品内でこの訳が載っている二箇所のうち一箇所めは作品序盤であって、風に絵が倒される場面である。ここで強い反語の意味を持ってくるのはかなり皮肉めいているというか「お前」の結末の伏線なのか?それならば反語で訳した意味は理解できるきがする。しかしそれならば、本来の「il faut tenter de vivre」とは異なる意味ではなくなるのだけれども、それはよいのか?また二箇所めは「生き生きと」「切ないまでに愉しい日々」とある希望にあふれた箇所なので、一箇所めの意味でもたせた意味はひっくり返るのではないか?それでよいのか?って、省略したけど書いちゃった、全然的外れな読みだったら恥ずかしすぎてとびこみますね)ため省きました。またいつか書きます。なにかご存知の方がいらっしったらご教示ください。

   古典の素養がないことがばれそうですがそれでも「風立ちぬ、いざ生きめやも」って、めっちゃ生きそうな文だなあと思います。超生きそう。私も、まじ生きることにします。

 

   と書いたところで。

   ポール・ヴァレリーについては私は詩集を読んだだけなので恥ずかしながらよく存じ上げないのですが、はじめて知った・読んだのは「自殺が許されるのは、完全に幸福な人だけだ」という文でした(引用で読んだだけなので文脈における意味を確認していません。うちの図書館で手に入らないので早いうち手に入れて確認したい。とにかくこの一文は私の胸を打った)。

   私が休学していてやや回復してきたころ・私の意志ではない病的な「死にたい」からいろいろ考えた結果の「死にたい」にシフトしてきたころ(やっかいといえばやっかいな時期だな)にその文を読んで、「そうか私がいま死んでもかわいそうと思われるだけなのかつらかったんだねと思われるだけなのか、そんなの悔しい、生きなきゃ、勝ち組になって完全な幸福・状態で死ななくちゃ」と思った(寺山修司『青少年のための自殺学入門』も読んでた)。「人生を通じて遺書を書こうと思った」と日記に登場するがそれもこのあたり。当時は病に臥していたので許してください。このころの日記を読み返すと自分のことながらめっちゃ死にそう。でも死ななかった。生きててよかった。

 

  「 とりあえず生きておく」って大事だな、と思った。

   それはいまになったからいえることで、その最中にはそんなこと思えないのだけれど、とりあえず生きること。そうしたら、自分はここにいていいんだってわかる。こともあるかも。数年前の自分に言ってあげたい。言ったところで救われる気持ちにすらならないのだろうけれど言ってあげたい。まあね、生きていける気がしてねむっても、朝目が覚めて、瞬間に「あっ無理」と思うこともありますよね。でもとりあえず生きておくという選択をする。でも私は、その選択をしないひとを否定したり非難したくはない。

 

   今年は人生総決算したい。

   いま、風が立ったきがするんです。

 

 

前回の文について補足

「小説でも詩でも日記でもない」と書きましたがそれはきっと「小説でも詩でもある」ものなのでしょう、でもおとといあげた文は「日記」ではないのです。

 

 

さつきばれ

 

 物語のはじまりには 丁度いい季節になったろう

まるで全てが変わるように

小沢健二「暗闇から手を伸ばせ」

 

 五月。五月はよい季節である。

 時折さあっと吹く風は、四月のように花を散らせはしないし、六月からはじまる夏のように、じとりとした湿気を含むこともない。ただ髪をなびかせる。ただワンピースの裾をひるがえらせる。新緑がうつくしい。カーディガン一枚の身軽さ。五月のようなひとになりたい、と思う。

 

 そんなよい季節なので、ブログをはじめてみた。

 

 ここのところ出会うひとが才能のあるひと・頭のよいひとばかりで、そしていろいろな本を読むことが多かったので、落ち込んだ。すばらしい文や思想は努力や積み重ねに裏づけされていることもわかっているから、よけい落ち込んだ。わたしは何もしてこなかったな。わたしはなんら、付け足せることばを持たないな。別にわたしがなにか書かなくても世界はここにあるじゃん。とおもう。

 それに、なにかについて考えて、なにかについて書くのなら、わたしのこれまでについて多少ふれながら書かなければならないこともあるだろう。大したことでもないけれどそれは避けたかった。知られたくないわけではないけれど、ひとに知られるようなことでもない。けれどね?

 そう。まあ、いっか。

 

 できるだけ個人の匂いは消したいとかどういう人間であるかは消したいとか考えたけれど、ここに書くのは作品ではないし、面倒なのでやめました。わたしの朝のおけしょうは2分あれば完了するけれど、それはかける時間もクレンジングもただ面倒だからであります。そういうことも書いてしまおう。もうなんでもいい。

 

 桜が終わったな、と思ったら、まるでバトンタッチするみたいにつつじが開花しましたね。列車の連絡待ちみたいに。花界隈でも、あなたつぎたのむわよ、みたいなことがあるのかしら。わたしは五月のようなひとになりたいし、ひとつきごとに交代する花のようなひとになりたい。花は美しいな。気がついたら、つつじも藤もことしはおわってしまった。百日紅とのうぜんかずらがたのしみですね。

 

 なにかを書くということ。

 わたしはまだ臆病なまんまで、少し戸惑っている。