愛について

 どうか私の愛があなたをあたたかくやわらかく呪っていくことがありませんように。
 二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社 2006年1月23日 P-198)
 二〇〇二年九月三日(火)の日記

 愛してくれてありがとう、でもどうしてそれがこんなにもつらいのかわからない。愛されるというのはなぜかとても苦しいものであるし、愛されないことはおそらく、もっともっと苦しくてつらい。どうしたって苦しいのか。愛することだって苦しい。それなのに、それらから離れることはできない。
 わたしの2014年2月21日(金)の日記

 愛されているなあと思う。なんだか泣きたくなる。幸せだなあ。愛されることは責任を伴う。愛することが生きさせることであればいいなあ。愛したい、と思う。愛している。
 わたしの2014年3月3日(月)の日記

 


 愛が、ただ愛であるように。という祈りについて。

 承前:わたしが上記で述べた「愛されている」「愛している」のその「愛」とは、異性間のものも含んでよいが恋愛とはやや異なり、主に親類とのあいだで交わされるものを指す。以下もそれに倣う。

 前述の日記を書いたあたり1年くらいのわたしは、「わたしは愛されている、大事にされている、こんなに幸福である」ことが苦しくてたまらなかった。「わたしはこんなに幸福であるのに愛されているのに、なんにもできない、いつまでもくずのままだ、わたしがいなければみんなもっと幸せだったのに、」と毎日泣いていた。いま思えば、やや「愛」を誇張していたのかもしれないし、当然「愛」そのものがわたしを苦しめていたのではない。自分が必要以上に自分を許さなすぎたのである。つまり自分が自分を、苦しめていたのである(だから自分を苦しめてはいけないのだ、とまた考えてしまうけれど、この「~すべき」をゆるめられるようになるのが今年の目標です)。自己肯定感が低いというか、そもそも自分が存在していることを許せなかったのだ。
 ただ、「愛されることは責任を伴う」と書いているのはまさにその通りだと、いまでも思う。ひとに優しくしてもらうからには、愛してもらえるからには、きちんと生きなければならない。愛は無償ではないのだろう、とわたしは思っている。自分自身が誰かに優しくするようなときには見返りを求めているわけではないけれども、もちろんわたしに優しくしてくれているひとも見返りを求めているわけでもないだろうけれども、世の中とは「そういうふうに」できているのだろう。けれど、そういう義務感のようなものを意識しすぎていたから、苦しかったのかしら。愛に、自分に、わたしは苦しめられていた。

 わたしはずっと、「つらいと思っちゃいけないのだ」と思い込んできた。母が家を出たときも、「そうだあの子にもおとうさんがいない、だからこれはつらいことじゃない」と思い込んだ(のだと思う)。「だれもわるくないんだ。これはつらいことじゃないんだ」と、諦めることにした(のだと思う)。そのときのわたしは「わたしが存在したことは間違いだったのだ、わたしがいなければみんなもっと幸せだったのだ」と感じた(のだと思う。そのときのことはもう覚えていないけれど、振り返ればそうだったと思わされる)のに「わたしは愛されている、不自由なく生きている、だからきちんと生きなければならない、親は3人いるけど生きてるし、うちよりもっと大変な家もある、だからわたしは苦しんではならない」と思い込んだ。

 「ひとがなにかを誇張したり主張したりするときは、実はその反対のことを思っている」ということが、ひとの心理にはよくあるそうである。わたしが中学生のころから書いてきた日記やもう公開することのないウェブログにはたびたび、「私はずっと愛されてきた(のだからつらいと思っちゃいけない)」という文が登場する。これもきっと、「私が生まれたことは間違いで私なんていなければいいと思われている」と思っていたその裏返しだったのかもしれない。愛されてる大事にされてる、だから苦しんじゃいけない、と、自分を縛りすぎていたのか。
 親が離婚すると、「父と母の愛ゆえに生まれたはずなのだからそれがちがったならわたしが生まれたのは間違いだったのだ」と思うと思う。親が再婚すると、「前の奥さんとの子なんてじゃまに決まってる、疎まれているに違いない」と思うと思う。少なくともわたしはそうだったと思う(あまり覚えてないけどそう思っていた気がする)。7歳の子どものあたまで考えた論理、10歳の子どものあたまで考えた論理に、わたしはいつまでも縛られていたのだ。

 だいぶ大きくなったいま、そのように考え始めた。なので、「子どものころの自分はこう感じていたのかもしれない」がわかれば生きやすくなるのではないか、何かヒントになるのではないか、と思って、大学のカウンセリングに通い始めてみた。はじめて行った回の、カウンセリング終了時間2分前になって「そういえばおかあさんのこと聞いてないね」と言われたとき、魔法みたいにぼろぼろと、涙が出てきた(めいわくなやつだな)。反射で泣くなんて、これはやはりわたしの中にずっと残っている問題なのだろうな、と思った。カウンセラーさんは、「よく誰も責めず文句も言わずここまで来ましたね」と言ってくれた。ひとを責めてよかったのだ。わたしは悪くないと思ってよかったのだ。つらいと思ってよかったのだ。いま振り返れば当然だ。生まれたすぐからずっと近くでめんどうを見てくれていたばーちゃんにも、「おにいちゃんはよく泣いてたけどあんたは一度も泣かなかったね」と言われたことがある。カウンセラーさんはまた、「何も感じないようにする術を身に着けたんでしょうね」と言った。母方のおじにも、「お前は昔からどこか冷めてものをみている」と言われたことがある。たしかにわたしは「これは仕方のないことなのだ」と諦めていた(そんな記憶がある気がする)。いまも「みんないなくなるし、全て終わる」と思ってタイミングを掴めないことはよくある。それでも「わたしは愛されてる大事にされてる」と思うことで(父はずっといたから、それはもちろん真実でもあるのだけれど。母もわたしのことを愛してくれていたのだけれど)、傷つかないようにしたんでしょうかね。わかりません。7歳の女の子は何をみて何を感じていたのか。わたしにはもうわからない。わからないから、追いかけていかなければならない。わたしはあなたに「苦しんでいいよ」と伝えてあげたい。わたしはあなたを、愛してあげたい。

 「わたしはつらかった」。「わたしはくるしかった」。「あのときの自分を愛してあげたい」。「わたしは憎んでいることがある」。ここまで思えるようになるのに16年かかった。

 「愛することが生きさせることであればいいなあ」とは、わたしの願望である。ここまで書いてきたような理由でわたしは愛されることがつらかったし、「愛してくれるひとが増えるたび、優しくしてくれるひとが増えるたび、死ねなくなる」と思ってしまう。愛は呪いなのか。
 けれどわたしにも愛するひとがいる。愛してくれてありがとう。わたしもあなたを愛しています。わたしがあなたを愛することをゆるされたい。わたしがあなたを愛することがあなたを苦しめませんように。わたしがあなたを愛することがあなたを絶望させませんように。愛されてるから死ねないなんて思いませんように。希望でありますように。あなたを生きさせる力でありえますように。愛が呪いとなりませんように。愛があなたを生きさせますように。
 わたしを苦しめるのはわたしだった。ほかの何でもない。わたしを縛るのはわたしだった。その要因となる出来事はあったにしても。「わたしは愛されてる」「苦しんじゃいけないんだ」「つらいことじゃないんだ」「わたしが生まれたのは間違いだったのだ」と、自分に呪いをかけたのはわたしだった。

 ひとと一緒にいると、そのひとがわたしを非難する声が聞こえてきて、「きっと違うんだわたしの思い込みなんだ」と思おうとしてもたまらなくなって、人間関係を壊してしまう(これは大学に入ってから)。わたしのことを邪魔だと思っているに違いない、わたしがいなければいいと思っているに違いない、と思い込みすぎてしまう。それもおそらく前述したような所以なのかなあ(じゃあ高校まではふつうにやってこられたのはなぜか)。このせいで最近もまた引きこもっていたけれど、地上に出てきたら、光は優しかったのでした。光は目をくらませるものではなかった。美しいものを見させるものであった。みんなわたしが生きているように願ってくれる。愛は呪いではない。愛がどうか光でありますように。あなたの行く先を照らしますように。涙の出そうなくらいに、そう思うのです。

 あなたとは、あなたのことでありわたしのことでもある。みんな本当はひとりの人間なんじゃないか、みたいなことをよく考える。このことはまたいつか。
 わたしは自分にかけた呪いを解かなければならない。今年一年の目標はそのことです。
 要素が多すぎて自分でもよくわからないけれど愛したいし生きたいので、よろしくお願いします。
 わたしは攻撃性が100%自分に向かう・内にこもるタイプだから、自分だけ破滅するからいいけど(そうなると休学したりして結局迷惑かけるけど)、ひとに向けてしまうタイプのひとは大変だろうなあ、と思う。本当にそうしたいわけじゃなくてその原因となるものがあるはずなのにね、そこまでは目を向けてもらえないのだろうなあ。世の中にはいろいろなひとがいる。

 あなたは世界に愛されている。
 わたしはそう思うよ。

 

 

 2018年7月17日 追記

 2015,6年ころに書いていたものの、タイミングがなくて掲載していなかったので、今。これをさらりと公表できるということは、いろいろ乗り越えつつあるということでしょうか。どうか全ての「わたし」が「わたし」を愛することができますように。