朝雲2 そのほか付随して

 

 前回書いた内容(unabara1675.hatenablog.com )に付随して。 

 ‪「大学に友だちがいなかった・誰とも関わりのなかった私のことを見てくれていたのは、私のことばを受け止めてくれたのは、私にことばをくれたのは、せんせーだけだった」そんな私の大学三回生の後期は、せんせーがいたから大学に行けたし(それでも行けないことはあった)、勉強もできたし、せんせーに救われていたようなところが、とてもある。たくさんある。けれど、だから私はずっと、せんせーのことを思うことがあって、会いたいのだとしたら、「好きって何なのか」と思わされる。

 せんせーが私のことを見てくれていたから(「見てくれていた」というのが誤解を招くような気もするので補足しておくと、それはただ単にせんせーがとてもよい人で、それぞれの学生をひとりの人間として尊重して扱ってくれていたということである。相手が学生だろうと私みたいな学生だろうと、対等に接してくれていた。そして、せんせーほど「一対一」での対話をしてくれた先生はいなかった)せんせーのことを慕うのだとしたら、私は「そういうひと」がよいだけではないか?せんせーじゃなくてもよかったのではないか?

 せんせーに限らず、その相手のことを好きなのは間違いないことなのに、こんな風にして自分を常に疑ってしまうことが、ほんとうに嫌になる。

 前々回の内容( unabara1675.hatenablog.com )は2年前に書いたものであるが、いまと考えている(悩んでいると言うべきか)ことが変わらない。思えば、「好きって何かわからない」と言って人を泣かせた19歳のころから私はずっとそんなことを延々とぐずぐずしてきたなと思う。そしてそれは今日に至るまで大した進歩がみられないという不勉強さよ。私は自分の感情に自信がない。というか、感情の理由と由来を把握しておきたい。でも、そのための道筋がまだ足りない。

 せんせーのことを思いだしたり考えたりすることと同時にこんなふうに考えることをすることも、ほんとうは嫌だ。誰かの存在を理由に何かを感じたり何かを考えたりするのが苦手だ。どうしても、その対象を消費している気持ちになってしまう。「消費する僕と消費される僕(小沢健二アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」より)というのも、ここのところの私のテーマの一つである。

 「好きってなんなのか」とか、なんとか、いろいろ考えてみて、「対象に抱く感情は対象に由来するものでなければならない」というところまでことばにできた。そしてその内容は、以下の書を読んだことで、どのあたりを勉強したら進めていけるのかの道がみえてきたように思う。そしてそれはせんせーの授業で教わっていたあたりであった。

 何かを気に入るか気に入らないか、何かに魅力を感じるか感じないか、それは我々の選択の対象になることではない。何かに魅力を感じ、好感を抱くことを、トマスは「愛(amor)」と呼ぶ。愛は「情念(感情)」の一つであるが、「情念」はラテン語ではpassioという単語であり、passioは「受動」と訳すこともできる。「情念」と「受動」は、日本語だと全く違う概念だという印象を与えるが、ラテン語では一つの概念となっている。それは、「情念」は「受動的」な仕方で生まれてくるものだと考えられているからである。

山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』岩波書店、2017年12月20日、p-70

 私の不勉強により、内容や文脈を正しく理解できていると思わないが、それでも「愛という情念(感情)」は「受動的」な仕方で生まれてくるものだという考え方があることを知られてよかった。私は、対象に抱く感情・情念・好きってやつ・愛、などは、受動的に抱かれるべきであるように思う。きっかけは、由来は、対象自身であるべき。

 たとえば「トキメキや駆け引きこそ恋の醍醐味」という意見に私が賛成できない(というか興味がない)のは、それは「対象そのものではない」からである。私は、「あなたがある」というその一点のみでいい。その一点のみを/で、好きといいたい。愛したい。そこには一切の私の事情や理由は差し挟みたくない。

 

 というところで、きょうまでの私が辿り着けたのはここまで。

 ちゃんとことばにできるまで、わかるまで、書けるまで待っていたら、ここに何も書けないので、途中でもなんでも書いてしまおう。