はじまるよ

 
    いつのまにか冬だった。
    私の生まれ育った北海道では、もう積雪したりしているらしい。いつのまにか冬だった。
    こちら、京都も、もうすっかり寒い。まあ、あちらほどではないのだけれど。北海道民は(というか私は)極寒への対策をしか知らないから、北海道よりも気温が15度以上高いはずの本州にいてもつい、北海道にいるときと同じような厚着をしてしまう。防寒の手を緩めることができないのだ。寒さは相対的なものではなく、絶対的なものである。程度よりも、在るか無いか、が重要なのだ。そこに在る寒さには、いつだって全力で対処しよう。
    そんな今朝は冬の匂いがして、ふと、まだ雪のやまない三月に、「君がいつ、誰を、どんなことを思っていようが、それでもよかったんだよ。」と言われたことを思い出した。真冬のような寒さの中にも春の陽が差す、にぶい夕暮れだった。
    届かないと思われること。私はそのとき、何を見ていたのだろうか。私はどこにいると思われていたのだろうか? やわらかく絶望した。しながら、思い出すことすら時間の必要な、あまりに遠いその時間の甘さに目をつむって、その日は眠った。
    好きってなんですかね、と、これまでいろいろなひとに聞いてきた。そんな、本来はかんがえるものではないようなことをかんがえているから私はあの日のように、ここにありながらここにないと思われてしまうのだろうか。でもどうしてそんなに、感情だけで愛して欲しいと思うのかしら。その気持ちはわからないわけではないけれど、それでもついかんがえてしまう。そしていろいろなひとからいろいろな答えをもらっては、ひとつひとつ納得して、しなくて、そして忘れて、好きってなんですかね、と、かんがえ続ける。あらゆる自分の感情や背景を除いたゼロ地点に立って、その上で「好き」を置きたいのだ。それはとても難しいし、あまり意味のあることではない気もする。
    ただ、いまひとつだけわかっていることは、好きってなんですかね、というその答えは、探す日々の中にしかないということである。もしくは、その対象の生そのものであるか。
    「好き」とほど近いと思われることばに「恋」があるけれど、「恋」については何も思うことがない。あまり興味がない。
    一応興味を持ってみるとすると、「こい」ということばの初出は古く万葉集にあったらしい。その「こい」には、「孤悲」という字があてられた例がある。ひとりで相手を思うこと。たしかに恋とは、そんなものである気がする。
   「好き」と「恋」を並べてみると、「愛」ということばが横からのぞき見してくるけれど、よけいにわけがわからなくなってしまうので、気がつかなかったことにする。「愛」がいちばんわかりやすいようにも感じるけれど。
   さて。「好き」と「恋」とは、別のものである気がする。恋ってなんですかね、とは思わない。わたしあなたのことが好き、とは言えるけれど、わたしあなたに恋してる、は、なんとなく違う。「恋」だと、自分ひとりで溺れているように感じてしまう。その状態には私は陥らないし、その状態がよいものであるようにはあまり思われないから、興味がない。
   「好き」ということばのほうが、感情の守備範囲が広い気がする。「好き」の中に、「恋」が内包されているような。いや、そういうことじゃないんだ。じゃあ私はなにを知りたいんだ。わかったとしてどうしたいんだ。ううんと。好きってなんですかね。私は「好き」に潔癖なのかもしれない。とてもとうといものだと思うから。
    私の中のもの全て置いて、好きだと言いたい。それは、ただ、あなたが美しいのだ、と伝えたいからなのかもしれない。あなたが美しい、それゆえだけに私の「好き」がある、と、それだけなのだ。それだけなのだ。
    と、あああ、よくわからない。読んでくれているひとも、こいつは何がしたいのかと、言いたいのかと、よくわからないと思う。ほんとうによくわからない。
    ぐるぐるかんがえてよくわからなくなりながら、さっき4年ぶりに遮光カーテンを洗濯したら、この部屋に明るい光が差し込んでくるようになった。
    好きってなんですかね。うん。よくわからないんだ。わからないけれど、私はあなたに何か伝えるとき、私があなたの名前の先に続けることのできることばはただひとつ、「好き」という、ただそれしか持ち得ないんだ。それでいいかな。あなたのことを好きだと私は言ってもいいかな。私は、あなたがいること、それだけでうれしくてたまらないんだ。そうか、これが「好き」のすべてだったのかしら。
    きょうのこちらは晴れでした。あすも晴れ。きっと。
    いつか私の生まれ育った街の雪を見においで。
 
 
2016年 冬