気がつけば、ここを5ヶ月も空けてしまっていた。
書きたいことや書こうと思ったことや、いくつも下書きはあるけれど、途中にしたままである。とりあえずそれは置いておいて、「ひさしぶりだから」なんて気合を入れずに、ひとつめを書いてしまおう。
この5ヶ月のあいだで私は大学を卒業して、京都から鎌倉へ引っ越して(このあたりは前回書いた)、という、いわゆる「新生活」が始まっていた。ここのところの毎日は、朝は7時半過ぎに起きて8時半過ぎに家を出る。夜は21時ころに帰宅して24時に就寝する。そんなふうに1日が終わる。
「しゃかいじん」になってからというものの、自由に使える時間は学生時代よりもうんと減って、家のこと(ごはんやおべんとうやお風呂や洗濯など)を済ませると、残る時間はかなり少ない。それでも大きな不満はとくべつない。
そんな日常を過ごすなかでいま一番に不思議なことは、大学時代よりも圧倒的に自由時間が少ないのに圧倒的に毎日が暇だ、ということである。
きっと頭をあまり使っていない、文章を書いていないから、なのだろうな。と思う。いまある悩みごとも、学生時代のように時代も地域も越えた思想を取り入れながら考えて解決していくようなものではなくて、もっと現世的で美しくないものばかりだ。そんなときにこそ人文学を、とは思うものの、イデア界に想いを馳せてばかりでは生活がとまる。
文章を書かない。それは私にとってかなり苦痛らしい。書きたいことや思いだけは常にあり、それを言葉に出していないということが、苦しくてたまらない。頭のなかだけではなくて実際に書かないことにはうまくまとまらないし、まとまらないことが苦しい。時間がとかパソコンがとかなんとか言ってないでとにかく何かを、書き続けなければ。体は同じところの往復だとしても、せめて頭のなかだけは、世界も時代も縦横無尽に飛び回りたい。
私は書かなきゃいけない星のもとに生まれてきたのかな、なんてかんがえる。それで生きていくだとかは別として、とにかく書かなきゃいけない星。私の人生には書かなくていいことなんて、ひとつもないよな。
先日、小学校時代からの友人3人とひさしぶりに会った。2人とも、ここを時々読んでくれているらしかった。「文章好きだよ」と言ってくれた。「昔からよく書いてたよね」と言ってくれた。「書いてないなんてもったいないよ」と言ってくれた。
書いたものを読んでくれるひとのあること、感想をくれるひとのあること、「書いて」と言ってくれるひとのあること、ほんとうに嬉しい。こいつは書いた方がこいつのためにいいな、という治療めいたご厚意によるものだとしても。
はじめて小説やら詩やらを書きはじめた小学校5年生・11歳のころから14年が経つ。それ以来ずっと好きだったこと、続けていること、人に褒められること、それらはすべて同じひとつのこと、「文を書く」という、そのことひとつだけだった。たしかにそうだった。
遠くにみえている青信号に、どうせ間に合わないからと、急いだり走ってみたりすることもせずに、歩いて向かうことにする、するとその青信号は思いのほか長く点灯していて、ああ、走っていたら間に合ったのかもな、と、そう思うような、今までも今も、私の人生は、そんなことばかりな気がする。そんな風に生きてきてしまった。
やりたいこととか、好きなこととか、できそうなこととか、できることとか、でもきっと私にはできないとか、届かないとか。そんな風にして、流してきた。
でも、流れてなかった。
君は君らしく生きて行く自由があるんだ
大人たちに支配されるな
初めから そうあきらめてしまったら
僕らは何のために生まれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れていても始まらない
Yesでいいのか?
ねえ 目をあけて
余計なものから生きる力は生まれないから
あなたにはもう見えているはず
自分が大事だよ それも人なんだよ
雨が空から離れたら きっと
見えなかったものがあなたに見えるよ
傷つけたくて傷つける人なんて
どこにもいない
進むためなんだから
熊木杏里「雨が空から離れたら」
まだ間に合うのかしら。私は。
絶望の最小化ではなく希望の最大化を図るよう生きること。