calling

 
    「よばれる」という感覚は時々あって、なにかに引きつけられるというか、たとえば直感と言い換えてもいいのかもしれないけれど、もっと音もなく大きななにかで、そう、やはりそれは「よばれる」というのがいちばん適切な気がするから、わたしはこの感覚を「よばれる」と表現している。
    京都に進学したのは、まあいろいろ事情はあったのだけれども、「よばれた」からだった。ふと、「あ、京都」と、そうしてよばれるままにやってきて、京都在住であるいま、わたしはある場所によばれている気がするから、卒業したらそこに行こうとおもう。
    わたしがわたしを失えないのは、この世界によばれているからなのだろうか。
    これは自分ではないのだとよくわかっていながらも抗うことができないことがある。突然涙が止まらなくなる。自分を壊してしまいたくなる。意思によって生きているのではなくて、身体に生きられているような。頭の言うことを聞いてくれないから、身体を投げ捨てたくなって、窓を開けてしまう。風がつめたい。
    小学生のころからわたしは「もうひとつの世界」を信じていた。それは死後の世界を指しているのではなくて。そこは何もかもが調和した完璧に美しい世界。「美しいである」世界。
    小中学生のころはよくかみさまと会話をしていたから、「わたしはこちらの世界の住人ではないのだろう」と感じていた。早くあちらに行きたいと思っていた。でも、どうやらまだ行けないらしい。引きつけられず反発する。風がわたしを押さない。なぜ?
    おねがいだからずっとわたしの名前を、読んで、呼んで。そしてわたしをよんでいて欲しい。「美しいである」のはこの生と、そう思わせて。
 
    窓を閉める。わたしもあなたをよんでいる。