十七歳

 
 
「十七歳」
 
    発することばの一文字一文字が凍ってしまいそうな十二月だった。
    音もなく、しろにしろをかさねる雪が降る。右横を、すこしだけ盗み見ると、その無数のうちひとつが、うつむき加減にあるく高階さんの、すっとのびた睫毛に、選ばれたように、ふわりと着地した。こごめ雪。そうしてすぐに水滴になる。まばたきをさせて、頬をすべりおちる。高階さんのからだの熱に溶けていったそれになりたいと思った。
    自分に向けられている視線に気がついてこちらをむいた高階さんの目が、わたしを刺す。気持ちが動かされるたび白い息が漏れた。わたしは高階さんから目をそらせなかった。
 
「寒いね」
 
    先にそらしたのは高階さんだった。つられてわたしも、まだましろな路面を見る。
 外はすっかり夜だった。空はくらくて、雪はあかるい。積もりたての六角形たちが街灯の光を反射させてきらきらとかがやく一面は、高階さんと私のための舞台かと思われた。まだ誰の足跡もつけられていないその上を、ふたりで歩く。私は、いまにも手を広げて走り出したかった。
 
「今日の最高気温はマイナス3度らしいですね」
 
    そんな天気予報の受け売りに弾んだ心地をもたせてしまったのは、高階さんの発した、寒いね、という四音が、ひどくわたしを嬉しくさせたからだった。
    ね。という、わたしに、わたしだけにことばが向けられたしるし。それだけでたまらなかった。
    踏みしめる雪の鳴る音が、いまそこにたしかに高階さんが存在すると知らせるたび、たった175センチそこらのこのいきものが、愛しくって、とうといと思った。その生の宇宙のすべてをこの両腕の中に抱きかかえたいと、涙の出そうなくらい思った。その生のあることを、かなしみもせつなさもその始まりから終わりまで、持ちうる感情とことばの限り愛したいと思った。
    思っても、わたしのあたまの右ななめ、15センチ上を規則的にあるいは不規則的にゆらされる黒髪の運動さえ何ひとつ、わたしのものにはならないのだと、わたしはちゃんと理解していた。高階さんは、21歳のおとなだった。わたしは、17歳だった。わたしから高階さんは、遠すぎるのだった。
 
「お嬢さん、さっきの数学できそう?」
 
    高階さんはわたしの名前を呼ばない。その代わり、お嬢さん、とか、君、とか、妹みたいに子どもみたいに、呼んだ。
   わたしは 曖昧に、はい、と答えた。あなたの手ばかりを見ていたのだけれど。
 このひとの書く数式は、これまで目にしたどんなことばや文の羅列より、美しかった。左手でほおづえをついて、右手にわたしのシャープペンを握って、このひとが一字ずつ展開する世界に、わたしは見惚れた。高階さんに教えてもらった範囲の小テストは、いつも追試を免れたのだった。
    高階さんは、わたしの目の前に現われた、ひとつの大きな、世界そのものだった。
    さっき習った相加相乗平均なんかよりも、高階さんのことを知りたかった。このひとの心のなかにはだれがいるのか、右手人さし指の指輪はなにを意味しているのか、なぜわたしとあそんでくれるのか、など、異性交際なんてしたことのないわたしには、わからないことだらけだった。わたしには、高階さんがただそこに立っているだけで鼻の奥がつんとして、焦がされるほどに胸が痛い、そんな現象を恋とよぶらしいということしか、きっとこのひとはわたしのものにはならないのだろうということしか、わからないのだった。
    ファクトリーを出たあとのこの4本の足がどこを目的地としているかを、高階さんは明らかにしていないけれど、駅へ戻るのだろうなと、わたしはこれまでの経験から予測していた。20時を過ぎていた。
    17歳のわたしを、夜遅くなる前にきちんと家に返すところも好きだった。それでも、それがもどかしかった。お酒も煙草もできる21歳のこのひとに、いっそ誘拐されたいと思っていた。わたしだけのものにならなくて良いから、このひとだけのわたしにして欲しいと思っていた。
    恋の名のもとにわがままを言うことは、子どもなのか大人なのかと考えた。わたしはどちらでもない17歳だった。恋の名のもとに忠実に切実にただ、手を伸ばせば届くほどの隣を歩くこのひとに恋をするしか、できないわたしだった。
    高階さんは、目の前の女子高生が自分へ向ける目線に込められた熱に、気がついているだろう。気がついていながらも、その熱を冷まそうとも、燃やそうともしない。どちらでもないようにかわしながら、どことなくこれ以上は近づけないような雰囲気を纏わせる。
    ふたりで歩いていると、数分おきにわたしの右手と高階さんの左手がぶつかる。というより、ぶつける。好きだと言うように。伝えるように。ほんの少しの憎しみを込めて。
    どうして手をつないでくれないの。
    あり得ないとわかっていながらも、手ぶくろはダッフルコートの左ポケットに待機させたままであるのには、理由があった。定規では測ることのできない距離を隔てて気まぐれにゆれるその左手に、ふれたくて仕方がなかった。わたしの全意識はこの右手に集中させられた。
    高階さんの手にふれたくて、掴みたくて、引っ込みのつかなくなった右手は、十二月の風のなかで感覚をなくしていった。
    ヒールの高さだけわたしは子どもだった。校則通りの黒髪を長くのばして、頬にアプリコット色をのせて、そんな精いっぱいの背伸びですこしは大人になれたつもりでいても、高階さんの前では17歳でしかないことを思い知らされるのだった。
    ヒールも脱げない不恰好さでわたしは高階さんへと駆けていた。
    わたしはわかりやすく恋をしていた。