bear

 
 
    誕生日の前月になると、「お誕生日クーポン」のメールマガジンがあちこちから届くようになる。アイスの31%オフや、洋服の1000円引きや、トリートメントのサービスなど。無敵な気持ちになれる。
    先月は誕生日でした。祝福してくれる方がいらっしゃって嬉しい。どうもありがとうございます。
    誕生日には、いろんなひとがその当人に「おめでとう」と言ってくれる。何をめでたいとするのか。そのひとが生まれたことは何十年経ってもめでたいことである、ということだろうか。なんて美しいのか。
    でも、当人が会うひと会うひとに「ありがとう」と伝えるのが本筋なような気もするな。自分の生がこの世に存在することを祝福してくれることへの返礼としての「ありがとう」ではなくて、自分の生がこの世に存在して、それから存在し続けているのはあなたのおかげですという意味での「ありがとう」を伝えるべきではないか。来年の誕生日は積極的に、その日会ったひとに「ありがとう」と言ってみよう。
 
    最近は何も書きたくないし、書けないし。ということはつまりかんがえることを進めていたわけでもなければ、きちんと勉強もしていたわけでもないのであります。この文も、2週間前に途中まで書いていて、やめて、それをいま書き足したり書き直したりしている。けれどその期間に、そういう、論理や技術などではなくて、「感情」というものを発展させることができていた気はします。
    私は感情がきらいでした。人は簡単にそれに流されるから。何も見えなくなるから。だから、なぜそうかんじるのか、ほんとうにそうかんじるのか、それをかんがえなければ、という強迫観念に常におそわれるのです。けれども、たとえば「好き」は「好き」でいいし、「悲しい」は「悲しい」でいいじゃん、という、そういう単純な感情を単純な感情としてまずはそこに置く・肯定することの重大さのようなものがわかった気がします。
 これらは私の課題だったので、やや克服し始めているところなのかもしれないです。よい24歳にしよう。I was born.「生まれる」は受動かもしれないけれど、「生きる」は能動だ。そして25歳の私を生むのは私ですね。
 
    
 
    あざやかさを、匂いを、おとした金木犀の花の、たちこめる生と死のなかで、私はある。光によって。愛によって。私の意思によって。私はある。
    道ばたに降ったそのちいさな花びらを、手帳のきょうのページにはさんでみた。2017年の10月20日に、また会いましょう。
 
 
 2016年11月4日