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誰にも公開するはずのなかった日記


    2014年2月28日金曜日


    リンネルのお洋服がやはりとても好きなのであります。将来はこんな風になりたいな。そうしたら、生きる希望が湧いてくるようです。

 

    心が健康である、とはどういう状態なのでしょうか。

    死にたいのは不健康なのでしょうか。生きようとすることが健康なのでしょうか。

    死にたい、と言うと、心配される。それはよく理解できる。人は、「生きることを幸せと思うことを前提として」健康であるのか。それは、よく理解できない。私には、世の中の多くの人が、思考を停止しているように見える。死にたいことはまああるだろうし、生きたいこともまああるでしょう。そのどちらかであることを、考えた結果ではなく出来事の結果として選んでいるように見えるのである。つらいことがあれば死にたいだろうし、うれしいことがあればまあ生きたいでしょう。その出来事に振り回されているだけではないのか。しかしそれは当然といえば当然といえる。失恋したら死にたいし、恋人ができたら死にたくないのは当たり前田のクラッカーといえる。「しかしそこに思考はあるのか」。「そこに自分はあるのか」。

    私はすべて幸せなときに、終わることを考えます。

    恋人はいつか去る。愛する人は死ぬ。宴会後は帰る。今日の私の美しさは失われる。そして死ぬ。それらは、避けることがどうしてもできない。

    人の心を止めなければならない。時間を止めなければならない。不老不死にならなければならない…。

    およそ無理な話である。いつか、もしかして可能となるにしても、それより先に私は上記を実現させている。絶望である。生まれた瞬間から、私の努力などは一切無視して、文字通り、望みは絶たれていた。

    だから、終わらせないためには、終わらせるしかない。

    失わないためには、失うしかない。すなわち死するのである。それしか解決策はない。

    これは、出来事によらない、思考による死にたい、である。同じように、生きろと、死ぬなと、言う人には、正しい正しくないは世の中にどうせ存在しないのだから、とにかく考えたうえで「生きたい」といってほしい。

    放射能はヤバいけど、毎日食べてるものだって十分にヤバい。世の中は眩しく狂っている。思い込まされている。正常に向けて狂っている。そう思える。私が狂ってるのカナ?

    健康な心(というよりは頭、なのかな)とは、何にもよらず自分で考えた事を持っていることだと私には思う。

 

 

    休学してたころの手書き日記。全文ママ。


    2016年6月8日のわたしの付け足し

    いま振り返れば、このときの私はそれこそ「健康な精神・頭」を持っていなかったので、ちょっとお待ち、と声をかけてあげたい。一応これでも元気になりはじめたころで、だからこれをすべて手書きでノートに書き綴れていた。といっても回復してはいないから、この世の終わりみたいなことばかり書いている。このころはからだの苦しさは幾分楽になってはいるしすこし頭を使えるようになったころであって、それゆえに「やや回復したからだ+回復してはいない精神状態+すこし使えるようになった頭」という合わせ技の一番めんどくさい状態であって、こんなことばかり書いていたのである。でも、ほんとうにそうだったな。すべて終わることがつらいな、と思っていた。まあいまもだけど。終わらせないために私が終わろういま死のう、と思っていた。いまは思わないけど。その「終わることがつらい→だからいま死のう」の流れを思考とよんでいいのかはいま振り返れば疑問ではある。でも生きててよかったね。

  「健康な心(というよりは頭、なのかな)とは、何にもよらず自分で考えた事を持っていること」は正しいと、今でも思えます。


    2016年10月1日のわたしの付け足し

    終わりだとかに関していまは、〈「終わらないよ。」「終わりを定義しよう。話はそれからです」〉(9月17日「最終電車」参照)の気分でおります。

    あとみっつ、休学してたころに書いてた日記を下書きに保存してあるのだけれど、なかなか載せられないなあ。またいつか。