進むとは何か

 
    とてもよい文を文を書くひとがいて、そのひとの文が更新されるのを私はいつもたのしみにしている。
    このあいだ、更新された文をわくわくと読んだら、心乱された。母の愛についての文だった。内容はごく普遍的で当たり前で、おそらく大体のひと賛同することで、正しかった。私も異論はないし、やはりとてもよい文であった。とてもよかった。けれど私は心乱された。
    文中で繰り返される「お母さん」ということばにも私は気分が重くなった。たとえば他にも、ここ連日テレビで放送されるオリンピック関連の、出場選手がお母さんへ感謝を伝える場面にも私はすこし気分が重くなる。すぐに忘れるけど。
    誰も傷つけない文やことばというのは、あるのだろうか。たとえばこの文も、誰かを傷つけているに違いない。
    私は「重度かつさわやかなファザコン」を自称しており、よく、父がどうのこうのと言うし、書く。それを読んでわずかでも心乱されたり傷つくひとがいるだろうとは、ある程度予想している。
    何かについて書くとき、語るとき、誰からも受け入れられることはきっとない。
 「人を愛することはよいことだ」という命題があったとして、それはおそらく正しくて、しかしながらいくつもの「けれど」や「自分は愛されなかった」や「愛が人を殺すこともある」などは、かんがえられる。私自身も「愛が人を呪うこともある」とは思う。あらゆる場合はあるけれど、それらすべてを鑑みながら書くことは不可能に近い。だからといって、「不快に思うひともいるんだからやめてください」という主張も違う。
 何かについて書くとき、そこから弾き出されるような場合や人があるのは仕方がない。ありとあらゆるひとがあって、ありとあらゆる場合がある。そしてそれを知るたび、「何も言えない」という地点に立ち止まってしまう。
 けれど、全てに考慮していては何も言えないし、何も書けない。
 けれど、いつも意識していたい。
 立ち止まってはいけない。
 けれど、進まなければならないのか。
 そんなことをかんがえ続けることだけは、やめてはいけない。

ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ!
小沢健二「ローラースケート・パーク」
   
 このことばをいつも胸に刻みます。
 
 書くって、伝えるって、ことばって、何なのか。
 私にはまだまだ洞察が足りない。