生きている

 
    一年ぶりにお会いした方がここを読んでくださっていて、とてもうれしかった。ありがたかった。
    自分のためにしかならないし書いていて何になるのか、と思いながらも、書かなきゃ、と思うから、私は書いていました。公開することに意味があるから公開しているとはいっても、誰も見ていなくても書くのですが、見てるよと言ってくださる方がいらしたら、ああやろう、と思います。書くたび絶望しますが、それをしなくなるために、やろう。
    くださった感想のひとつに、「内容がいつも意味深ですよね」というのがありました。そうですかね。なるほど。もうひとり、そう言った方がいました。なるほど。
    できるだけ「私」から遠ざけたいとか、できるだけ雰囲気のみを残したいとか、かんがえていたら、今のところこうなってしまった。たとえば目の前のあるものについて書くとき、具体的なことばでかさねることで現れる景色より、何も描けていないようなことばから立ち上がる景色が私は見たいのだ。それを見ることができるようになるということが、私の今後の目標のひとつにある。けれど、私の場合は具体からの抽象ではなくてただの抽象だから、よくない気もする。まずはものごとを考えるために書かなければ、と思う。私は論理的に、ものをかんがえることができないのだ。感性だけに寄ってはいけない。その感性があるかどうかもわからないけれど。
 きれいで上手で論理的でしっかりとした思考に基づいた文を読むたび、あああ私はこんなに書けないのにここで書いてて何になるんだろう、と、いつも思う。見てくれているひともいるから、きちんとした文できちんとした始まりと終わりで書かなければならないな、でもあああ書けない、とも、思う。
 できないくせに完璧主義で、「かくあるべき」に縛られがちで、ひとの目を気にするゆえ何もできなくなる私はもうすこし、自分のためなのだということを意識した方が、きっといい。そもそも書けないし誰かのためにここを書いているわけではないけれど、自分のためでもなかったと、気がついた。
    もっと、毎日のことを書こうかしら。
    手段としてここに文を書くことにしているけれど、目的でもいいのかもしれない。私は、私の食べたものも見たものもここに書こう。そうしてそこからいつも何かをかんがえて、書けばよい。文を書くために書くことと、記録を残すこと。かんがえることも、「日記」のように記録を残すことも、いまの自分のためにもいつかの自分のためにもなる。そうしていつか読んだ誰かのためになることがあればいいな。
    私はいま、私が生きてあることを書けばよい。記録すればよいのだ。
 おととい、ひとがウェブ上に書いた日記を四年分読んだ。美しくて涙が出た。
 いくつかの文はノートにメモをした。「あっ、あれってこういう言い回しで表されるものだったのか」とおどろいたことがあって、私の脳内辞書に登録した。すっきりした。
 このような内容はもちろんであるけれど、私は、そのひとが生きているということが美しいと思った。そのことに涙が出た。
 私は書くばかりでなく、ひとの日記を読むことが好きである。たとえば高野悦子さん、二階堂奥歯さん、弘津正二さんなどの本が、私の家にはある。ほかにも読みたいので、おすすめがあればご教示くださいませ。
    彼らの文や思考が大好きで尊敬しているというのももちろんあるけれど、「このひとは生きていたんだな」と思わされるのが好きで、読んでいる。そう思うとき、胸がきゅっとなるのが好きなのだ。愛しいな、という感情。
    その公開・非公開を問わず、随筆や作品などよりも日記の方が、そのひとの生が克明である気がする。それらと較べて飾りのない、日常や感情の発露だからであろうか。日付が記載されているせいであろうか。一日一日と、生が刻まれていく様子。時々思いを馳せてみる。「何を食べたとか 街の匂いとか 全部教えて(大森靖子「ミッドナイト清純異性交遊」)」という気分になる。ひとが生きていることは愛しい。
 ひとは自分以外の物語がほしいのかな、見たいのかな、と思った。だから映画を見たり、ひとと仲よくしたり、音楽を聞いたりするのかな。
 大森靖子さんがタワーレコードのポスターに、「だれかを 好きになりたくてしかたないんでしょ」と書いていた。私はこの言葉がとても好きで、共感する。私はひとが生きていることが愛しくてしかたないし、だれかを好きになりたくてしかたないし、愛したくてしかたない。それは恋愛の範囲に限定されるものではない。
    だれかを好きになるのは、だれかの物語を読みたいからなのだろうか。それまで生きてきた人生や現在の思考を、その物語を、読み解きたいからなのだろうか、知りたいからなのだろうか。だれかを愛するというのは、それを愛しく思う感情の動きなのか。
    日記を読むのも、そういうことなのかもしれない。自分は一生行くことのない、他の生を覗き見ること。自分は見ることのなかった世界を、そのひとの目を通して、見ること。その物語を読むこと。
    わたしは、いまここに生きています。ここに何かを書き残しています。
    わたしが、いつか読まれる物語となりますように。
    そしていまこれを読んでいるあなたも物語だ。
    わたしは一生行けない、あなたの生をわたしに見せて。