おとなってやつ

 

 「24さいでこんなことになってるなんて予想外だったよね、恋にあたふたして友情に毎日感謝してる大人になる予定じゃなかった、でも毎日最高」

 私の流星の友人のことばである。ほんとうに最高な女の子だ。

 

 先週彼女と電話をした。近況報告などをしつつ、この年齢ってもっと大人だとおもってたよね、高いヒール履いてたり、ばらの花束とかもらってる予定だった、だとか、笑って話した。現実ではスニーカーで走り続けていたり、終電を乗り過ごして歩いて帰ったり、あたふたと、そんな感じ。でもね、それもさいこーだよね。

 いつから私たちこんなに仲良くなったっけ、という話にもなった。ふたりともはっきりと思い出せなかった。なにか出来事を思い出しても、でもあの前から仲よかったよね、となる。きっと、ひととひととの関係というのは名前や時間で区切れるものではなくて、グラデーションでしかないのだろう。

 私たち、いつまでもこんなふうに話をしているのだろうか。しているのだろうな。
 それぞれがそれぞれにきちんと生きながら、それぞれに成長したり何かを知ったり、伸びてゆけたら、いつまでも話ができるのだと思う。
 彼女とは毎日、一通ずつメッセージを送りあう電子文通をしている。そうして、いつも「ラブ」と言い合う。「好き好き言い過ぎると冷めるのが早い」とよく聞くけれど、そんなものだろうか。そうではないと思う。私が「ラブ」に込めるのは「あなたがいてうれしい」「あなたに救われている」「あなたがいてほしい」という思いである。そんな素敵な思いは、きっとどれだけ伝えたっていいはずなのだ。私と彼女は同性間であるから、異性間とは違うのかもしれないけれども、そんな思いを伝えて、伝えられて、そんなことをいつまでも、もう七年繰り返している。
    そんなことをかんがえていたら、ある一節を思い出した。大好きな文なので、やや長いが引用したい。
 以下、「自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない」という前提のもと、人性の自然として「交換」があると述べ、その根基的な形として例に「キャッチボール」を挙げたのちに続く。
 
 キャッチボールはひとりではできない。私が投げる球を受け取った相手のグローブの発する「ぱしっ」という小気味良い音と、相手が投げる球を捕球したときの手のひらの満足げな痺れのうちに、私たちは自分がそのつど相手の存在を要請し、同時に相手によって存在することを知る。
 あなたなしでは私はこのゲームを続けることができない。キャッチボールをしている二人は際限なくそのようなメッセージをやりとりしているのである。このとき、ボールとともに行き来しているのは、「I cannot live without you」という言葉なのである。
 これが根源的な意味での「贈与」である。
 私たちはこのようにして他者の存在を祝福し、同時に自分の存在の保証者に出会う。「私はここにいてもよいのだ。なぜなら、私の存在を必要としている人が現に目の前にいるからである」という論理形式で交換は人間の人間的尊厳を基礎づける。(中略)
 たぶん、ほとんどの人は逆に考えていると思うけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。
 どうして「その人なしでは生きてゆけない人」が増えることが生存確率を向上させるのか、むしろ話は逆ではないのかと疑問に思われる向きもおられるであろう。「誰にも頼らなくても、ひとりで生きてゆける」能力の開発のほうが生き延びる確率を高めるのではないか。経済合理性を信じる人ならそのように考えるだろう。
 だが、それは短見である。
 「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実認知的言明ではない。そうではなくて、「だからこそ、あなたにはこれからもずっと元気で生きていて欲しい」という、「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。
 自分のまわりにその健康と幸福を願わずにはいられない多くの人々を有している人は、そうでない人よりも健康と幸福に恵まれる可能性が高い。それは、(キャッチボールの例から知れるように)祝福とは本質的に相互的なものだからである。
 内田樹あなたなしでは生きてゆけない」(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文春文庫 p-272)
 
 彼女と私はそんな高度なことをしていたらしい。
 たしかにそうかもしれないな、と思う。私たちは、というか彼女は、自分のことはきちんと自分でわかっていて、きちんと生きている素晴らしいひとである。それぞれにひとりひとりとして生きたうえで彼女と私は、ここでいう「キャッチボール」であるところの毎日の電子文通をしている。内容の如何はもちろんであるけれど、それと同じくらい、互いにことばを送りあうというそのこと自体が重要であるようなきがする。
 私が送る。彼女が返す。私が返す。彼女が返す。このようにしていつまでも、ことばのキャッチボールは続いていく。それを言い換えると「自分がそのつど相手の存在を要請し、同時に相手によって存在することを知る。」ことであるのかもしれない。    
 私たちは毎日それぞれに、それぞれの生活のなかでなにか出来事があったり、感じたり、考えながら、生きている。それらを毎日文面で、あるいは時々の電話で声によって、伝え合う。出会った16歳のころから、23歳のこんにちまで、そんなふうに。そうしてそれぞれに、おとなになりつつある。
 そっか。ボールを投げる力や受け取る力、それ自体がなければ、「キャッチボール」はできないんだな。私たちが日々生きてなしていることは、その力をつけるということなのかもしれない。
 私は、「あなた」と出会い続ける人生でありますように、と、このにっきで何度か書いてきた。内田せんせいも、『たぶん、ほとんどの人は逆に考えていると思うけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。』と、先ほど引用した文の中で述べておられる。やはり「その人がいなくては生きてゆけない人間」と出会い続けることが生きるってことで、おとなになるってことなのかもしれないな。
 「予想外」な日々・おとなであっても、「毎日最高」。それってやっぱりよいことだ。予想外でさえも「最高な予想外」にしてきたのはきっと、自分たちなんだ。
 これからの人生も予想外なことばかりだろうけれども、それらだって、「すばらしいこと」にしていきたい。誰かと出会いことばを交わすこと、自分をしっかり持つこと、保つこと。それがおとなになるということなら、私たちは最高なおとなになれる気がする。なりたい。