夏のコントラスト


    先週友人に誘われて、奈良の花火大会に行ってきた。
    そんなに大規模ではないらしく、ほぼ地元のひとばかりのような雰囲気であった。地元人ぶりながら、クレープの屋台に並ぶ。いちごクレープを注文したのでそのつもりで食べたら、なぜかパインだった。あまいモードになってしまっていた舌が、酸っぱいを感知した。何事かと思った。おいしかった。
    京都に来てからははじめての花火大会だった。札幌にいたころは高1からの4年間毎年、豊平川での花火大会へ行っていた。そしてあらためて、花火はよいものだなあ、と思った。
    星が幾つかしかない空を、ひとの顔もよくみえない暗闇を、ぱっと照らしては、すぐに消えてゆく。なんの未練もないように。
    単色で単発に打ち上げられるものを見ると特にそうなのだけれど、どうしても、花火を見ると、戦争のことを思う。むかし人びとはこの音の中で、この火に焼かれたのだ。ほかにも私は、金一色の、短冊みたいにきらきらと降るあのしずかな星空のような花火が好きなのだけれど、あれを見るときには、空襲で焼かれる町はこんなかんじだったのかな、などと想像してしまう。焼夷弾のように見えるのだ。
    小学生のころ、テレビで見た戦争のドラマがあまりにも怖くて、ひとりで外出できなくなったことがあった。ゆらめきながら降ってくる金色の火の粉を、うつくしいと、ロマンチックに浸れる私たちは幸福である。
    夏には生と死の匂いが付き纏う。
    8/6、8/9、8/15。たとえば戦争のことを振り返るのはいつも夏だ。ひとが生きるとうとさを思う。お盆もそう。会ったこともないご先祖さまのお墓参りへ行って、先人たちが生きてきたことや自分がいま生きていることを思う。帰省をしてひさしぶりに親戚と会うときにも、いつまでこうして会えるか、などとかんがえる。死を思いながら生を思う。その逆も然り。
    また、夏は、ぶっちぎりで明るい季節でもある。
    太陽。あざやかな花。日の長さ。丈のみじかいワンピース。気持ちがはしゃいで、早まって、人びとはどこか解放感に浮き足立っていて。街はずっと落ちつかない。けれどやがて盛りを過ぎてゆく。花は枯れる。
    生と死、明と暗。そのコントラストが、夏はほかの季節よりも強いのではないか。だからきっと夏はこんなにも特別だ。
    平均寿命まで生きると仮定すると、私にはあと60回ほどの夏がくる。あと60回しかこない。蝉の声を聞いて、強い陽射しのもとを歩いて、きゅうりの一本漬をたべて、麦わら帽子をかぶって。そんな夏はあと60回しかこない。
    いつまでも大げさに青空を仰ぎたいな。太陽に眩みながら。いまが始まりみたいな気持ちで。
    あと60回しかない夏をいつもきちんとみつめよう。いつも好きなひとたちと駆け抜けよう。
    あの花火大会のことを私はおそらく、60年後もおぼえている。おぼえていて、60年後の60年前のその日のことを、強い生の記憶としてきっと思い出している。
    生きていたい。