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この町で


    京都生活5年目にしてはじめて祇園祭に行ってきた。この町での生活・大学生活をふりかえるには、半年残っているから、まだ早い。早いのでさらっと。

    何度もここに書いているとおり人と出かけることのほぼない一回生後期以降だった。けれどもそれゆえか、ひとつひとつのお出かけの記憶が鮮明である。この場所はいつ誰ときた場所、と、すぐ結びつく。ひとつひとつの記憶があざやか。それはそれで幸福なことなのかもしれない。

    今年の3月以降、人生がハイパーたのしい。
    だれかと話すってこと、出かけるってこと。それができるようになった。こんなにたのしくて、嬉しくて、たまらない。ひとといることの幸福。みんなそんな幸せ、知ってたの。うらやましい。でも私、知らないところから知ったから、私の方が幸福は大きいのかもしれない。なんてね。


     すさんだ奴がはびこる、この街にさ、
     君の声が聞こえてくる。
     出会う人は、その声かえす鏡のように。
     だから、僕は歌える、歌えるから…。
                             中村一義「君ノ声」


    私は毎日、昔のわたしを見る。私の中に住んでいるひとふたりのうちひとりが、昔のわたしである(もうひとりは透子さん。かつては口の悪い神さまも私の中に住んでいた。だれがいるのかはいつもよく把握できていない)。私はその「君」のために生きたいと思う。彼女が必死で生きた、その声が聞こえる。だから私は彼女のために生きたい。彼女がもう泣かないでいいように。生きてくれてありがとう、と言えるように。
    「出会う人は、その声かえす鏡のように。」とは、出会う人がその声を肯定してくれる、というような意味だと捉えている。それは、「誰かの待つ歩道を歩いてく」ことと、とても近いように思われる。君の声が聞こえてくるし、出会う人が君の声を受け止めてかえしてくれるから、僕は生きていける。だから「出会う人」が増えるのはきっととてもよいことだ。


    この3連休は、札幌から遊びにきた両親と京都を回った。たのしかった。きょう札幌へ帰った。さみしい。
    親にはスーパー迷惑をかけてきたし、ウルトラ心配をかけてきた。気が気じゃなかったと思う。いと申し訳ない。でも私、生きるから。そろそろ、「死なない」モードから「生きる」モードに切り替える時のように感じる。私、生きるからね。
    と言うと、「生きる、じゃなくていいんですよ。とりあえず死なない、でいいんです。」と言ってくださる方がいらして、ほんとうに涙の出そうな思いが致します。よく死ぬためにもよく生きるためにも、私は生きたいと思います。



     飛び込んで行こうよ、その手をかして。
     飛び込んで行こうよ、見えるから。
                      中村一義「ショートホープ」


    こんどは未来の私の声が聞こえてくる。
    いろんなひとが私に語りかけてくれるのだな。
    素晴らしき世界。素晴らしき世界だね。
    この町で見えるもの、知るもの、感じるもの。
    そこに飛び込んで行こう。


    「誰かの待つ歩道を歩いてく」ってことを実感し続ける日々である。のこり半年、この町で生きる。