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人生、それは「魔法的」な

 

大学生活最後の年に出会えた小沢健二さんの「魔法的」ライブ、そして これまでの人生で出会えたあなたへ、これから出会うあなたへ

 

 あなたに出会えたことで私の人生これまでが肯定された気がします。どうもありがとう。

 そうあなたに伝えたら、あなたもきっと「あなたのそのことばで私の人生これまでが肯定された気がします。どうもありがとう」とこたえるでしょう。

 糸と糸とが布を織るとは、こういうことなんだな。

 

 以下、小沢健二さんの歌詞(特に「ラブリー」とその他「LIFE」の曲、もちろん他の曲)と中島みゆきさんの「糸」を読んでいるとわかりやすい日記です。

 

 

 はじめに

 

 これまでの私にとって「ラブリー」は、「よくわかる歌」ではありませんでした。ただの恋愛の歌ではないとは思っていましたが、まあ恋愛なのかな、くらいの意識でした。けれど「魔法的」ライブで聞いてみて、「やっぱりただの恋愛の歌じゃないな」と気がつきました。そして帰りの電車の中でいろいろ考えました。

 「ラブリー」で歌われているのは、「恋愛の最中の歌」というよりも「ひととわかりあうこと」や「ひとと出会うこと」「仲よくなること」なのでしょうか?

 私がこれまでよくわかっていなかった歌詞は、「夜が深く長い時を越え」「冬の寒い日に 僕ら手を叩き 朝が来る光 わかりあってた!」「誰かの待つ歩道を歩いてく」の三箇所です。まずは、

 

 LIFE IS A SHOW TIME すぐに分かるのさ

 君と僕とは恋におちなくちゃ

 夜が深く長い時を越え OH BABY

 LOVELY LOVELY WAY 息を切らす

 (「ラブリー」)

 

 ここでの「恋におちる」とは、「語り合う」とか「仲良くなる」「わかりあう」ということかなと思います。この「夜が深く長い時を越え」とは、直前の「君と僕とは恋におちなくちゃ」か、直後の「LOVELY LOVELY WAY 息を切らす」か、どちらの文にかかるのか、と考えましたが、どちらにもかかるし、独立しているのでもある気がします。

 「夜が深く長い時」とは、もう明けないかと思われたような、深くて長い夜、そんな夜のことを指すように思います。そんな夜を、ちゃんと越えて、生きてくることができた。そんな夜があって、そんな夜にあらゆることを感じて考えて生きてきた時間があったから、きっと同じようにあらゆることを感じて考えて生きてきたあなたと、仲よくなることができた。そうであるなら、「深くて長い夜」もあってよかったなと、思える気がします。

 「夜が深く長い時を越え」て生きてきた私たちは、君と話せばすぐに「恋におちなくちゃ」と直感してしまう。そして「LOVELY WAY」を、息を切らして走ってゆく。私とあなたが仲よくなれるのは、夜が深く長い時を越えてきたからなんですよね。

 

 次に「冬の寒い日に 僕ら手を叩き 朝が来る光 わかりあってた!」。

 これは、「わかりあってた!」なんですね。ひととひとはおそらく、「わかりあう」ものです。けれどここでは、「わかりあってた!」なんですね。たしかに、「わかりあってた!」と気が付く瞬間は、あります。「つながってた!」というか、たとえば真逆の方向から同じ真ん中めざして進んでいたとか、真逆の方向に進んでいるけれど出発点は同じだったとか。これまでのそれぞれの人生の蓄積や、深く長い夜や。実は私たちは、どこかで「わかりあってた!」からこそ、「君と僕とは恋におちなくちゃ」と「すぐに分かる」のかもしれないです。

 

 そして「誰かの待つ歩道を歩いてく」とは、そんな「わかりあってた!」の瞬間や「いつか誰かと完全な恋におちる」ような美しい瞬間のために、その誰かと出会うために、人生を生きていく、歩いていく、ということなのですね。

 その歩道では、きっと誰かが、夜が深く長い時を越えながら待っている。わたしはそう信じている。「誰かが待っている」と確信しているこの歌詞は、すごい希望だなあ、と感じます。そうして出会ったのち、「君と僕とは外へ飛び出す」のです。

 

 といっても、ひとは、全然違うところで生きてきて、生きていて、ほんとうに相手を「わかる」ことはないのだろうと思います。それでも「わかりあってた!」とわかる瞬間は、ある。それはきっと思い過ごしでもなくて、ただ美しい瞬間です。

 

 さらにひととひととの関係といえば、私は中島みゆきさんの「糸」を思い出しました。

 「縦の糸はあなた 横の糸はわたし」。その糸と糸が織りなすようすは、「関係」そのものですよね。どちらかの糸だけでは、織ることができない。双方が意志をもって、縦の糸と横の糸が同じだけ織られるからこそ、ひとつになってゆける・仲よくなってゆけるし、どのような形・関係にも変化してゆける。横の糸であるわたしは、わたしひとりではただの糸であるけれど、縦の糸であるあなたと織られることで、布となることができる。そうしてできた関係、すなわち「織りなす布」は、「いつか誰かを暖めうるかもしれない」ものとなれる。この「いつか誰かを暖めうる」がどのようなことであるかについて具体的に挙げることはむずかしいけれど、あなたとわたしの周りのひとも巻き込むことで新たな布ができあがるとか、そういうことかなと思います。

 「なぜめぐり逢うのか」「いつめぐり逢うのか」「私たちはいつも知らない」し、「こんな糸が何になるの」とふるえたりもするけれど、「誰かの待つ歩道を歩いて」「夜が深く長い時を越え」たらきっと、「完全な恋におち」てわかりあえたり、こんな私でも「誰かを暖めうる」ような関係を築き上げることができるのかもしれないな、と思いました。

 

 

 そうしたことを踏まえて、小沢健二さんの2ndアルバム「LIFE」についても考えました。このアルバムで1曲めから一貫して歌われているのは、「生きること」「ひとと生きること」「誰かが歩道で待っていると信じて歩いていくこと」ではないでしょうか。

 

  家族や友人たちと並木道を歩くように曲がり角を曲がるように

  僕らは何処へ行くのだろうかと何度も口に出してみたり

  熱心に考え 深夜に恋人のことを思って 誰かのために祈るような

  そんな気にもなるのかなんて考えたりするけど

  (「愛し愛されて生きるのさ」)

 

 1曲めで、「僕らは何処へ行くのだろうか」と問いかけています。

 歌詞のある曲のなかでは最後の曲である「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」でも、「Where do we go, hey now?」と問いかけています。「ねえ、ぼくたちどこへゆこう?」、と。

 「LIFE」の曲名はそれぞれ日本語ですが、それぞれにその英題がつけられています。

 歌詞のないほんとうの最後の曲「いちょう並木のセレナーデ(Reprise)」の英題は、「AND ON WE GO」とされています。このほかの曲は日本語の曲名とその英題がほぼ対応している(たとえば「愛し愛されて生きるのさ」は「LOVE IS WHAT WE NEED」であるし、「ラブリー」はそのまま「LOVELY」です)のに、「いちょう並木のセレナーデ(Reprise)」だけが対応していません。リプライズではないほうの「いちょう並木のセレナーデ」の英題は「STARDUST RENDEVOUS」であるけれど、歌詞に「星屑の中のランデブー」とあることから、それを用いているものと思われます。

     「AND ON WE GO」とは「AND WE GO ON」の倒置であって、「そしてぼくたちはつづいてゆく、次の場所へゆく」というような意味です。

 「僕らは何処へ行くのだろうか」「ねえ、ぼくたちどこへゆこう?」といった問いに対する答えは、このアルバムのなかに提示されません。「AND ON WE GO」「ぼくたちは次の場所へゆく」と、ただかたられるだけで、行く先は明示されません。このことが意味するのはきっと、「LIFE」すなわち人生には、向かうべき場所が予めあるのではなくて、「誰かの待つ歩道を歩いてく」ものなのである、ということなのでしょう。

 

  いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ

  それだけがただ僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく

  (「愛し愛されて生きるのさ」)

 

 この箇所も、「未来の世界」で「誰もが誰か愛し愛されて生きる」予感があるから、「悩める時にも未来の世界へ」ゆけるのだ、ということなのではないでしょうか。それは「ラブリー」での「誰かの待つ歩道を歩いてく」と同じことであるように感じます。歩道の先には誰かが待っている、という予感があるから、わたしたちは歩いていける。歩いていく。このあたりの詞のすごいところは、「誰もが誰か愛し愛されて生きる」ことも「歩道の先に誰かが待っている」ことも、確信しているところです。

 

  いつか悲しみで胸がいっぱいでも、夜が深く長い時を越えて、誰かの待つ歩道を歩いていけば、誰かと完全な恋におちることもあるかもしれない。そうしたなら、LIFEはもうSHOW TIMEなのである。そこからLIFEは始まるのかもしれない。

 いや、きっと始まりなのではない。LIFEはただ、COMIN' BACKしただけなのだ。人生はほんとうは、いつだって美しい。こんなすてきな、甘くすてきな、機嫌無敵なデイズはいつまでも続いていく。誰かの待つ歩道を歩いてく。誰かが待っている、そんな予感がある。そこには誰かが待っていて、そうして出会えた君と僕とは恋におちるのだ。

 

  LOVELY LOVELY WAY, CAN'T YOU SEE THE WAY?

  IT'S A

  (「ラブリー」)

 

 IT'S A、につづくことばは何でしょうか?LOVELY WAYなのだろうか?だとするとやはり、「LOVELY WAY」とは、「LIFE」のような気がします。

 

 

 

 小沢さんの詞が、身体感覚として、私に染みてくる。

 小沢さんの詞に、私の人生が沿うような瞬間があります。

 「あ、わかった」「こういうことなのかな」という、ぴんとくる瞬間。すっと自分のからだに流れこむ瞬間。これも糸と糸とが布を織るということなのかもしれないですね。縦の糸である小沢さんの詞だけがあってもそれは糸のままであって(私にとっては)、横の糸である受け取り手・私が、この詞ってこういうことなのかなだとか、私の人生を通して感じたり考えたりすることで、その詞と私との布ができあがっていく。私の生活を、人生を構成するような一部となってくれたりする。それが解釈するということで、関係をつくりあげるということなのかもしれないですね。

 

 「魔法的」、とてもよかったな。

     名古屋公演と大阪公演の、二回も行けた。

 小沢さんのライブは、予感どおり、私の大学生活の集大成となりました。私のこれまでを肯定したうえで、背中を押してくれました。

 

  渦を巻く宇宙の力 弱き僕らの手を取り

  強くなれと教えてくれる

  ちゃんと食べること 眠ること

  怪物を恐れずに進むこと

  いつか絶望と希望が一緒にある世界へ

  (「フクロウの声が聞こえる(新曲)」)

 

 小沢さんにとっての「強くなる」とは、「ちゃんと食べること 眠ること」なんだな。それでいいんだな。そこから始めていいんだな。「希望」をもつこと。けれど、希望だけをもつことが強さじゃないんだな。絶望と希望が一緒にある、ということが強さなのかもしれない。絶望も希望もゆるすことができることが、強さなのかもしれない。

 そして最後に小沢さんは、「はじまり はじまり と扉が開く」と歌ってくれました。相反するものたちが一緒にある世界へ行くことがはじまりなのだ。そこからはじまるのだ。うん。これでいい。

 けれど私も、ちゃんと食べて眠って、その上で怪物を恐れずに進む強さを身につけたい。そして、私を肯定してくれたひとたちに追いつきたい。そのひとたちみたいになりたい。次は私が肯定する番だ。10年後にはそこにたどり着きたい。まずはここからはじめるのだ。

 

 そういえば「魔法的」でやってくれた「大人になれば」でも、「僕らは歩くよ どこまでも行くよ なんだか知らないが 世界を抜けて 誰かに会うとしたら それはそうミラクル!」と歌っておられる。そう。きっと、「歩いてく」ってことなんだな。

 

 僕らは歩くよ。どこまでも行くよ。夜が深く長い時を越えながら。

 そこで出会うあなたが、私のこれまでを肯定してくれる。

 そんな魔法みたいな瞬間が人生にはある。

 

 いままで出会ったひとみんなありがとう。

 あなたのおかげで私はここまでたどり着けました。

 そしてこれからも歩くのだ。

 歩道の先ではきっとまた誰かが待っている。

 

 

 

 最後に引用。

 

 …ですが、かけがえのない人は、人生において確かに存在します。家族、友人、そして恋人や配偶者、私たちは真剣に生きるなかでそういう人たちと出会っていきます。「赤い糸」のように前から決まっている人生ではありません。しかし、たまたま出会った人々と一緒に生きていくこと、それが「かけがえのなさ」を育んでいくはずです。

 私は「あなた」と出会い、人生を一変させます。いや、そこで初めて人生が意味を持つ気さえします。そこで出会う私とあなたとは、一体何者でしょうか。私は、もはや肩書きや財産や容姿や、この肉体とそれにまつわる物を指してはいないはずです。私が出会うのは「あなた自身」であり、そうして出会っているのは「私自身」です。つまり、魂と魂とが裸で出会い触れ合うのです。それは私たち人間同士が抱きうる、そして抱くべき愛なのです。私たちは言葉を語り合いながら、なにかを求め、生み出しながら必死に生きています。その同じものを愛し求める者同士、あるいは導き手が、かけがえのない愛の仲間です。

 納富信留プラトンとの哲学 対話篇をよむ』

 

 

 一見、ここまで私が記述してきた「ラブリー」や「LIFE」の解釈と、「『赤い糸』のように前から決まっている人生ではありません。」という一文とは、相反するように感じられます。けれど、「ラブリー」や「LIFE」での「歩道の先に誰かが待っている」という確信も、「赤い糸のようにこのひとと出会うという運命」とは異なるはずです。「夜が深く長い時を越え」るからこそ、このひと に出会えるのだと思います。何もしないでもはじめからすべてが決まっている、というのではない。「  夜が深く長い時を越え」ながら、歩道を自分が歩いてゆくからこそ、のちに「あなた」となる「誰か」に出会えるのですよね。つまり「自分が自分を、自分の人生を、きちんと生きていく」ということなのですね。

 上記の「かけがえのない人は、人生において確かに存在します。家族、友人、そして恋人や配偶者、私たちは真剣に生きるなかでそういう人たちと出会っていきます。」という表現と、「ラブリー」の「LIFE IS A SHOW TIME すぐに分かるのさ 君と僕とは恋におちなくちゃ 夜が深く長い時を越え OH BABY LOVELY LOVELY WAY 息を切らす」という表現とは、とても近いことを伝えているように感じます。「夜が深く長い時」を、あらゆることを感じて考えながら「真剣に」生きるから、あなたと出会える。「たまたま出会った人々と一緒に生きていくこと、それが『かけがえのなさ』を育んでいくはずです」。これも、「あなたとわたしで糸を織る」ということのような気がします。そうして私たちは「かけがえのない愛の仲間」となり、いつか「外へ飛び出」して、また誰かの待つ歩道を歩いていくのですね。

    

 

 「あなた」と出会い続ける人生でありますように。

    そうであるよう、歩いてゆきたい。

    生きてゆきたい。

    

 

 

 写真は、大阪公演最終日に、私の隣にいたおねえさんが、小沢さんが投げた「魔法的電子回路」を幸運にもキャッチなさったので、終演後にお願いして撮らせてもらった、その小沢さんが投げた「魔法的電子回路」のどアップです。

 

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