とりあえずで生きる

 

  この1ヶ月くらい鬱々としていたのに急に生き返った。ここのところばいとと大学しか行かない日々(ゼミも怖くてさぼってた)、ばいとでしか人と会話しない日々、だった。でも出かけるようになったら世界が広がった。生きていこうと思った。

 

     “Le vent se lève, il faut tenter de vivre”

 

   ポール・ヴァレリー「海邊の墓地」の一節です。

   岩波文庫の『ヴァレリー詩集(鈴木信太郎訳)』で「風 吹き起こる…… 生きねばならぬ」と訳されています。

   堀辰雄はこの一節を「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳しました。このことについてもいろいろここに書いていたのですが、「めやも」の誤訳説を知り、それについてかんがえることは「風立ちぬ」の作品を読み込むことであり、考えるうちに作品内における意味と現実における問題とが交錯してきてよくわからなくなった(作品内でこの訳が載っている二箇所のうち一箇所めは作品序盤であって、風に絵が倒される場面である。ここで強い反語の意味を持ってくるのはかなり皮肉めいているというか「お前」の結末の伏線なのか?それならば反語で訳した意味は理解できるきがする。しかしそれならば、本来の「il faut tenter de vivre」とは異なる意味ではなくなるのだけれども、それはよいのか?また二箇所めは「生き生きと」「切ないまでに愉しい日々」とある希望にあふれた箇所なので、一箇所めの意味でもたせた意味はひっくり返るのではないか?それでよいのか?って、省略したけど書いちゃった、全然的外れな読みだったら恥ずかしすぎてとびこみますね)ため省きました。またいつか書きます。なにかご存知の方がいらっしったらご教示ください。

   古典の素養がないことがばれそうですがそれでも「風立ちぬ、いざ生きめやも」って、めっちゃ生きそうな文だなあと思います。超生きそう。私も、まじ生きることにします。

 

   と書いたところで。

   ポール・ヴァレリーについては私は詩集を読んだだけなので恥ずかしながらよく存じ上げないのですが、はじめて知った・読んだのは「自殺が許されるのは、完全に幸福な人だけだ」という文でした(引用で読んだだけなので文脈における意味を確認していません。うちの図書館で手に入らないので早いうち手に入れて確認したい。とにかくこの一文は私の胸を打った)。

   私が休学していてやや回復してきたころ・私の意志ではない病的な「死にたい」からいろいろ考えた結果の「死にたい」にシフトしてきたころ(やっかいといえばやっかいな時期だな)にその文を読んで、「そうか私がいま死んでもかわいそうと思われるだけなのかつらかったんだねと思われるだけなのか、そんなの悔しい、生きなきゃ、勝ち組になって完全な幸福・状態で死ななくちゃ」と思った(寺山修司『青少年のための自殺学入門』も読んでた)。「人生を通じて遺書を書こうと思った」と日記に登場するがそれもこのあたり。当時は病に臥していたので許してください。このころの日記を読み返すと自分のことながらめっちゃ死にそう。でも死ななかった。生きててよかった。

 

  「 とりあえず生きておく」って大事だな、と思った。

   それはいまになったからいえることで、その最中にはそんなこと思えないのだけれど、とりあえず生きること。そうしたら、自分はここにいていいんだってわかる。こともあるかも。数年前の自分に言ってあげたい。言ったところで救われる気持ちにすらならないのだろうけれど言ってあげたい。まあね、生きていける気がしてねむっても、朝目が覚めて、瞬間に「あっ無理」と思うこともありますよね。でもとりあえず生きておくという選択をする。でも私は、その選択をしないひとを否定したり非難したくはない。

 

   今年は人生総決算したい。

   いま、風が立ったきがするんです。

 

 

前回の文について補足

「小説でも詩でも日記でもない」と書きましたがそれはきっと「小説でも詩でもある」ものなのでしょう、でもおとといあげた文は「日記」ではないのです。