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宿る


    そのときのわたしにとって彼のなまえをよびかけることは、告白に等しかった。好きだと伝える代わりになまえをよんだ。彼の名を一文字ずつ発音することは、ひとつのたのしさであった。

    ドレミファソラシドの世界に身を置いて、鍵盤を弾けば音が鳴るように、その名を構成する文字をひとつひとつと発音するたび、恋があふれた。

    わたしは無邪気に、ゆうくん、とよんだ。あかるい気持ちで。好きだと言うように。
しかし、常に平静さを保とうとしていたから、彼はきっと、よばれた自分のなまえに音楽が流れていることにはついに気がつかなかったに違いない。
    わたしは止まらない音楽を追いかけながら、次々と湧きあがるパステルカラーのしゃぼん玉をつかまえては、はりでまたひとつひとつと割っていった。
 
    2015年10月15日
 
 


    記事のタイトルがいつも決まらない。
    それもそのはずで、自分で自分のノートに日記を書いているときは題をつけて書かない(私はね。「〜用ノート」を書くときにはきちんと見出しをつけるけれど)。題をつけるって大事なのだなあ。その、書かれた内容を要約するということ。自分で内容を把握するということ。題をつけることには、そういう効果があるのかしら。あっこれも「なまえ」に意味を宿らせるということなのか。なるほど。
    上に書いた散文では、好きなひとのなまえをよぶことに恋を宿らせていました。記事のなまえは、自分が名づけるという工程をはさむけれど、なまえに意味を宿らせるということ。なまえってすごい。
    といってもわたしは抽象化しまくって好きな文で題をつけてしまう気がする。これはそういうあそびです。