遡及的に愛されるいくつかの今日へ
この「一草一花」内で、数か所設定変更をしてみた。おそらくあまり気づかれないであろうし、気づかれなくてもまったくかまわないし、ただ変えてみたというそれだけのこと。id名だけではなくて、名前を表示させることもできると教えてもらったので、そこも変えた。かわいい名前。うふふ。
それと、「自由記述欄」「ひとこと説明」のようなスペースがあったので、
遡及的に愛されるいくつかの今日へ
と書いてみた。このような文の型・導き方のようなものはよくあるなあと思うけれど、書きたい内容はこれなのでこれにした。
生きてみなければわからないことをわかるために生きるのだろうか、と、ここのところ思う。いつかやってくる答え合わせのために生きるのだろうか、とか。
人がなすいくつかのことや、陥るいくつかの状況などといったことのその意味は、その時点においては明らかでないことが多い。そんなときには誰かを呪ったり自分を呪ったり、もう生きていたくないなーと思ったりする。
あと2ヶ月で終わる(はずの)大学生活で、私は何もできなかった。何もなかった。
1回生の後期からずっと体調が悪くて休学し、復学したあとには大学へ週5で通っていたのに、授業以外では誰にも会うことがなかった。人が嫌いなわけではなかったし、会話をすることが嫌いだったわけでもないけれど、常に「相手は私を疎ましく思っているに違いない」と感じてしまっていたから、怖くてたまらなくて、人間関係を続けることができなかったのだった。それは、よく言われる「自信のなさ(スキルなどといった、自分の存在に上乗せしていくものの問題)」のせいではなくて、そもそも「自分が生きている・生まれたことといった存在そのものの肯定感」が低かったせいであるように思う。
こんなにも人が溢れるキャンパスの中で、私は誰にも用がなかったし、誰も私に用がなかった。卒業してもしなくても変わらないような気がしたし、卒業式で自分が誰かと会話をしたり別れを惜しんだりするようすが、まるで想像できなかった。内にこもり続けていたから、何もできなかった。何もしなかった。
その大学生活を過ごしながら、まあひとりで本を読んだり日記を書く日々はきらいではなかったけれど、無駄に過ごしているんじゃないかと感じることは、常にあった。
今となっては、すこし懐かしくも思う。時間が経って、私はその日々を愛することができるし、そのときの自分を愛することができる。
2016年は、私にとって「答え合わせ」の年であった。「私は間違えてなかったんだな」と思える出会いがあったり、「あの大学生活の日々があったから私は今ここにいるんだな」と思える出会いがあった。それは、これまで自分が辿ってきた道筋でなければ辿りつかない場所であった。報われるような思いがして、その日々が愛しく思えた。けれどそれは今になったから言えることであって、たとえば今の私があのときの私に「だから生きなよ」と説いても、「そういう問題じゃない」といって、聞かないであろう。それは当然である。「生きてみてわかったこと」「肯定されたこと」は、「生きていないうち」「肯定されていないうち」には、わかるはずがない。そうはいっても、「そういう問題じゃない」といって聞かないであろう自分も、もしかしたらどこかに存在するかもしれないそういうひとのことも、「だよね」と言って肯定したい。
ものごとの意味は遡及的にしかわからない。何かを愛するためには時間が要ることがある。大体のことは、きっとそうでしょう。わかりたければ、愛したければ、それまで生きなければならない。まあ、もっとゆるく、「それまで生きたほうがいいんじゃないかしら」と、そんな風に思う。自分のこれまでがどこかに繋がるような、ここにたどり着くんだ、とわかるような、そんな日が来るかもしれないなら、たぶん生きたほうがいい。「今まで間違えてなかったんだ」という瞬間にしか、全ては肯定されないのではないか。
何でもない日常であるような今日も、つらいなーと思いながら過ごした今日も、いつかどこかに辿り着くかもしれない。愛されることになるかもしれない。それは誰かによってかもしれないし、私によってかもしれない。そんな遡及的に愛されるいくつかの今日について、ここ「一草一花」に書き留めておこうと思う。これは、そんな決意の一文である。文の最後に「へ」とつけたのは、何かしらの助詞をつけたいという思いもあったのと、未来の自分からのメッセージというような意味合いを持たせたかったからである。ここに書きながら、全てはいつかの未来において肯定されると、愛されると、現時点においてすでに予感しているのである。それくらいの希望を抱いたっていいよな。私は私に生きていて欲しい。
「遡及的に愛されるいくつかの今日へ」。その宛名の先に綴られるであろうことばを私はすでに知っている。そしてその未来になったとき、さらに続きを書くのでしょう。
これを落としたら卒業できないというラスボスのテストがあまり出来なくて涙目の今日も、いつか愛されますように。
bear
手からすべるように
流してしまったいくつかの出来事や感情に気がついて、ごめんね、と思った。
あの本を読んだのはいつだったっけ。あの音楽にはまっていたのはいつだったっけ。あんなことを考えていたのはいつだったっけ。
あの本を読んでその瞬間に感じたのは何だったっけ。あの音楽を聞いて自分のどんな感情のなまえを見つけたんだったっけ。あんなことを考えてそれをどんなふうに記述しようとしていたんだっけ。
それらはもうわからないし、思い出せない。ここに持っていたのになくしてしまったこと。あの本があの音楽があの出来事が、私にくれたものたちを、私は流してしまった。時間に。風に。
ごめんね。
そう感じた私は、すべてから語りかけられている気持ちになった。私に語りかけられたことは、私が記述しなければならない。
文を書きたい。
目に映るすべてのことはメッセージ。
calling
女学生
朝、目がさめる。上半身を起こすと、目の前にある全身鏡の中の自分と目が合う。おはよう。声をかけてあげる。かけてあげながら、寝起きの自分に絶望する。え、顔むくみすぎじゃね?私こんなかわいくないっけ?「朝は、いつでも自信がない」。昨晩ねむるまえに用意しておいた、枕もとの、コップ一杯の水をのむ。デトックス。ふとんから立ち上がって、台所へゆく。くだものを切る。毎朝の日課。きょうはオレンジ。オレンジはおいしい。ビタミンC。朝にくだものをたべる習慣があるのは、からだによいと、聞いたからであります。ただ、それだけ。春はあけぼの。朝はくだもの。くだものを長いあいだ食べないでいると、身体の中になにかわるいものが溜まるようで、具合がわるくなってしまう。トマトをよくたべるようにしているのも、そう。からだにいい気がするから。ただ、それだけ。トマトの味なんて好きじゃない。身体の調子さえも他人からの受け売りに左右されるなんて、ずいぶんいい加減なものだ。トマトをほんとうに、心から、美味しいと感じているひとも、あるのかしら。
消えないで
一年前の日記を転載
あざやかな夏が過ぎて、いつのまにか蝉の声も途絶えた九月、金木犀はセンチメンタルを加速させます。窓を開けて息を吸い込めば街中が初恋の嵐。